田舎のすすめ

第11期(2013年10月-11月)

必要なものがないことがどれだけ不便(ふびん)か、それを感じられる人は、何もないことによる不便(ふべん)がどれだけ幸せなことかにも気付くことが出来る。

数多ある布団の中で、おそらく心地の一番良い自分の布団の中で目覚めたとき、最初に聞く音はなんだろう?
日本の場合、夏であれば、おおよそクマゼミの大合唱で1日が始まるだろうし、冬ならばセットしたタイマーの指示通りに起動する石油ファンヒーターのスタート音、もしくは1年中目覚まし時計の不快な警告音という人もいるだろう。走る車のエンジンとタイヤの音が、家の中にまで滑り込んでくる街中に住んでいると、それこそ蝉の鳴き声のような遠鳴りが中耳の辺りにベトリとまとわりついたまま離れない。無音の中で寝起きするのが常な人には、その騒ぎ声に邪魔されて全く眠りに就くことが出来ないという惨事がもたらされる。都会に住んでいる若者が、田舎の一軒家にやってきて「静か過ぎて眠れない」と不安を吐露するのとは正反対の挑戦がそこにはある。

夏の風物詩である河川敷の花火大会には、屋台のニオイと灯りに誘われて大勢の人々がやってくる。
故郷の花火大会には、もう何年も足を運んでいないけれど、それは1発づつ数分間隔でもって大事に打ち上げられていくスタイルで絢爛豪華とは程遠いが、ひとつひとつの炎色反応を純粋に見られる点で他にはない良さがある。立ち込める煙の心配をしなくていいのも素晴らしい。有名花火大会が花火の大合唱なら、この花火大会は独唱といったところか。火筒から「ボッッ」と発射された花火玉は、「ひゅるひゅる」という音で観衆の視線を上空まで引き上げたのち、今度は地上をぼんやりと照らして消える。役目を終える瞬間に放たれた轟音は、閃光から少し遅れて鼓膜を揺らしてくる。黒に戻った夜空を眺めながら、山々にこだましてきた残響がもたらす、数秒間の大地の余韻を愉しむのもまた粋である。

単線の私鉄最終電車が川の対岸、数100m先を進んでいく姿はケンタウルス祭の夜を髣髴とさせてくれる。
山間いに点々と存在する居住地域を結ぶ2連結のワンマン電車は終着駅を目指してひた走る。起点の駅舎で片手ほどの乗客を抱えたのち、ゆっくりと時間を掛けて灯りのない人里離れた山の中までやってきた。辺りは夜の真っ只中、鈴虫と電車の音だけが響いている。街灯りも届かない暗闇の中に、ひときわ明るい四角の窓灯りだけが行儀よく横一線に並んで、水平方向にすぅーっと進んでいく。夜空と山々、その麓と川面の境界線は闇の中でおぼつかず、線路の上というよりは重力圏を脱して空中に浮いているようにも見える。カムパネルラの影を四角の中に認められそうな夜。銀河鉄道がそこに走っているかのようだ。

Okuoi

世の中には「必要なもの」だと思い込まされていることがあまりにも多い。
それは利便性という、ものさしを使って測られた尺度だから仕方がない。
このものさしは都会の役割の中で脈々と受け継がれている。
それを否定はしないが、田舎には田舎の役割があるはずだ。

インターネットが普及し、尚も資本主義的流れに沿って進んでいる現代。物質的にも精神的にも飽和した生活に疲れた(もしくは飽きた)人々が、何かを求め田舎を目指してやってくるときに、何も無い不便(ふべん)な田舎がそのまま残っていて欲しい。

そこにある「何も無い」世界では、自分と事象との関係範囲は自ずと狭くなり、最小限の心配と最大限の集中をするだけで済むようになる。世界のまとめニュースやSNS上の投稿を気にする必要がなくなるのは、「何も無い」場所には存在しないからだろう。いたずらに建設された道の駅や観光施設、設置されたView Pointは必要なものではないことにきづくはずだ。向き合うのは、便利な生活でもなく液晶の向こうに広がる世界でもない、自然(花鳥風月)そのもの。夜中がやってくる前の夜に包まれながら、無音の中で眠り、朝日と共に起きた鳥たちの鳴き声で目覚める。昼間は、そうだな、ご飯を作ってみてもいいかもしれないし、山に入って関係範囲をもっと狭くするのもいいだろう。

便利な生活のために「必要なもの」は買うことなどで得られるが、不便(ふべん)を買うことは出来ない。それは得るものではないからだ。「何も無い」ことの不便(ふべん)が欲しくなったとき、自分のものさしについても少しが変化あったことを幸せに思えるはずだ。

23/10/2013 Masa Nakao