アップルパイの魔女5

第13期(2014年2月-3月)

魔女(その5)_0002 
 アップルパイの魔女なんて題名を付けたのは、母親が長く栄養士をしていて、お菓子作りも得意だったからです。ジャムやホットケーキの類のおやつ作りから始まって、まだ物珍しいガスオーブンが、わが家へ来た日のことを覚えています。母の顔も、飛びきり輝いていました。
 どんなにそのオーブンの活躍したことでしょう。アイシング・クッキーにキャロットケーキ、マドレーヌ、アップルパイ。それから、どっしりとしたフルーツケーキ。中でも、フルーツケーキは、本当にたくさん作りました。砂糖やバターを計量し、粉をふるい、焼き型にサラダオイルを塗って、卵白を泡立てたりと、子どもがお手伝いすることはたくさんあります。しかし、母は、いつも決まって、全ての材料を混ぜ合わせる最終作業というのをやらせてくれませんでした。一度もです。
 
 なぜなのか。それは、いっぺんに素早く、複数の材料をサックリと空気を切るように混ぜ込まねば、ケーキダネが潰れてしまうからでした。混ぜ方が悪いと、オーブンに入れて焼いてもペシャンコになります。確かに慣れない子どもには難しい作業ですが、「あなたは不器用だから」と言っては取り上げておいて、万事上手く行っている風に振る舞う母にモヤモヤしたものが残りました。焼き上がったケーキは、膨らまなかったことを思い出せないくらいだけれど、むしろ一度も潰れなかった(ように感じ続けた)ことが問題だったのではないか。いっしょに作っているのに、おいしいケーキだったけれど、微かに削がれるものがありました。母は、明らかに(子どもの)失敗という経験を嫌がっていました。

 若かりし母は、さぞかし、上手く行かないことが苦手だったにちがいありません。彼女の秘密は、上手にケーキを焼く技だけでない、別のケーキの意味も隠してあったなんて。チュシャ猫みたいにニヤニヤするしかないじゃありませんか。

 その頃、近所に絵の上手なお姉さんがいて、頼んだらオスカルの絵を描いてくれました。かの有名な「ベルサイユのばら」です。わたしの家では、父の教育方針とお金がないため(父の本代)、マンガとテレビ禁止(活字重視)でしたが、長崎の出島のように世の中が入ってきました。
 
 お姉さんは、五人兄弟の一番上の長女で、わたしを可愛がってくれます。手足に障害があったのですが、器用に付けペンを操って、線を入れベタを塗りホワイトで修正される様を、隣に座って見てました。それはまるで魔法のよう。その家には、わたしと同じような拾われた猫や捨て犬が絶えることなく居て、妙に居心地が良かった。家では絶対禁止のマンガも好きに読むことができました。
 よく覚えているのは、その家のおばさん(お母さん)が、笑いながら「また叱られたんかいね、洗面所で顔を洗ってお出で」と言ってくれたことです。(母との諍いを)子どもなりに隠したつもりだったのに。顔を洗って、お姉さんがマンガを描くのを眺めたり、他の兄弟達と遊び始めれば、家へ帰る頃には随分元気になっていました。

 おばさんから一度だけ叱られたのは、お姉さんに手伝って貰って、手芸糸を使った小さいポーチを作っていたのですが、他の兄弟から誘われ途中で放り出し公園へ遊びに行ったときでした。お姉さんは一人で完成させてくれ、でもちょっとだけ泣いてたみたいで、そのことを叱られました。ふつうに賢くない(鈍い)子供だったので、お姉さんが「良いよ」って言ってくれたのに~と思うバカモノだったことが思い返されます。

 おばさんが伝えたかったことは、ルールではなく心でした。わたしは、お姉さんをひとりぼっちにしました。あの時、車椅子はありません。家の中で、お姉さんはおばさんから守られ愛され、大好きなマンガの世界を持っていてのびのびと自由に見えたけれど、公園へ行くことはできなかった。さみしい気持ちが分からないうちは、ひとは、幼いしいつまでも傲慢でいられます。おばさんから怒られたのは、その時だけです。

 去年の末に、葉書が届いて、そのおばさんが亡くなられたことを知りました。直接のお付き合いが薄れていて、慌てて母へ電話したけれど、母は自分の方がして上げたことしか覚えていないようです。電話を切ってから、届けたいのは、礼儀ではなく形にならないような何かであることに気付きました。これで、ようやくお姉さんへ手紙が書けます。

 わたしが人間嫌いにならなかったのは、全くおばさんのお蔭だったろうし、幼年時代に楽園のようなその場所のあったことを感謝せずにはいられません。