滑らかでパクパク

第31期(2017年2月-3月)

20年といえば、まあ、それなりの時間です。20年前のこと…思い出せるでしょうか? わたしは小学生でした。そして、そのそれなりの20年のあいだ、ずっと、わたしは長靴のことを誤解しながら生きてきたのでした。

こだわりの強い小学生だったわたしにとって、長靴というものは、野暮ったくて我慢のならないものでした。ぱかぱかして足にフィットしないような気がするし、原色の黄や赤がバカに陽気だし、通気性が悪くていつもジメジメしている印象だし。長靴を履いた状態を想像すると、泣きたいような怒りがこみあげてきて、くすんだ気持ちになりました。雨の日なんかに両親が長靴を履かせてくれても、玄関でこっそり脱いでしまって、運動靴に履きかえてから、家をとびだしていたものでした。

人生の初期にあって、不幸にも、長靴に「履かず嫌い」をしてしまったわたしには、その後長きにわたる「長靴ブランク」の期間が生じました。今思い返すと、実にもったいないことです…。

ですが、とにかく、次のような次第で、わたしは長靴と邂逅します。

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大学院生となったわたしは、動物園との共同研究を実施することになりました。実際の研究に先立って、1週間程度、その園で実習をする必要が生じます。この実習の際に、長靴が必要だったのです。20年のブランクのあいだに鈍っていた勘を必死にはたらかせて、わたしは、とあるアウトドアショップで長靴を買い求め、いざ実習に臨みました。

そうして、それはもう、今思い出してもうっとりするくらいに、長靴の力は圧倒的でした。足首をすっぽり包む抜群のフィット感にひたりながら、長靴特有の重厚な足取りで、濡れた地面をわっしわしと歩いていくあの快感! ホースで水をまいてブラシで床をこすりながらも、足元が濡れるのを気にする必要はないし、水たまりだってなんのその。底が厚くてやわらかいから、何時間立ち働いても足が疲れないし、おまけに、11月の終わりの冷えはじめた空気のなかで、ブーツの形状が下腿を温かく保ってくれたりもしました。

長靴のあまりの実力に驚嘆したわたしは、初日の実習日誌のほとんどを、長靴への讃歌で埋めつくします。そして翌日、担当してくださった飼育員さんから、ぬかづきさんは長靴のことが本当に好きなのね、日誌を読んで、ほほえましくて笑っちゃった、とまで言われることになりました。

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こうして邂逅した長靴とは、日常の雨においても行動を共にすることになります。ちょっとの小雨程度に長靴を煩わしても、あまりおもしろくない。そのかわり、本降りの雨が窓の外でけぶっていたら、これはもうしめたもの。うふふ〜と心のなかで鼻歌を歌ったりなんかしながら、靴箱から長靴をとりだしてきます。

傘をさして大股で歩きながら、長靴のつま先が濡れていくのを、わくわくして眺めます。大きな水たまりをじゃぶじゃぶ突っ切ってみたり、小さな水の流れを足でせきとめてみたり、芝生にふみこんでしっとりした土の上を歩いてみたり。雨の日に長靴を履くと、街も自然も風景がなんだか艶めいて見えて、思わず散歩や寄り道をしながら帰ってくることになるのでした。

先だっても、秋の終わりの冷たい雨の、11月のある日曜のこと。朝から大学でお仕事をしたあとも、なんだかまだ余力があり、雨のなかを行けるところまで歩いて帰宅することにしました。街中で愛用している折りたたみ式の長靴を履いたわたしは、夕闇の京都の街に踏みだします。

車や人でにぎやかな河原町通りをひとつ外れると、雨粒にしっとり濡らされてしーんとした裏通りが広がっています。年季がはいって蔦のからまったアパートやら、大学付属の古そうな体育館やら、重心の低いどっしりしたお屋敷やら。ふだんは見ない街の横顔が現れたような気がして、なんだかドキドキしてきます。闇に沈んだ鴨川も、こまかく降りつづく雨を静かに吸いこんでいます。

わたしのカバンからは、先ほどスーパーで購入した夜ご飯の食材のネギがはみだしており、緑色の葉先が雨に濡れて、なんだか気持ちよさそうにしているのでした。

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ところで、わたしが海外調査をしているところでは、現地の人たちは長靴のことを「ゴムブーツ」と呼びます。なんだか良い語感ではないかと思います。ゴムブーツという言葉の響きは、滑らかでパクパクしていて、ちょっとキッチュなあの形と、実によくなじみます。

長靴というと、すらっとしたイメージがありますが、ゴムブーツだと若干愚鈍な感じがするかわりに、もっと親しみやすい。ゴムブーツと言われると、その見た目がたとえ原色の黄や赤だったとしても、そんな些細なことは気にならないような気持ちになってきます。

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そして、もうひとつ思い出すことが。

数年前の2月、都内には大雪の予報がでていました。その日、わたしはちょうど長靴を履いて、友人の個展のオープニングパーティーに向かっていました。申し訳ないながらもだいぶ遅れて到着し、それから数十分でギャラリーが閉館して、その友人と何人かで連れ立って、近所の韓国料理屋さんに夜ご飯を食べに行きました。お店に入ったときには、これといった記憶がなく、雪もそろそろ降りはじめていたくらいだったでしょうか。

ところが、終電が気になる時間になってきて、お会計を済ませてみんなで外に出ると、辺りは一面の銀世界となっていました。歩道には10センチくらい雪が積もり、車道すらも雪で覆われて、それでもまだ次から次へと、湿った雪が落ちてきます。人も車もほとんど通らず、真っ白になった東京の下町。一同、寒い寒いと叫びながら、雪玉を投げあったりして、駅を目指します。

ひたすらどしどし降りつづく雪は、油断していると、駅のホームにもふきこんできます。遠くのほうを眺めても、絶え間なく降りしきる雪に邪魔されて、視界は閉ざされ、その向こうはどこまでも真っ白で、何も存在しないかのよう。

最寄りの北千住で電車を降りたわたしは、真夜中の雪の街をひとり歩きます。当時住んでいた家は駅から徒歩17分、途中からは下町の家並みです。雪はあいかわらず降りつづき、今ではもう15センチくらいの厚さになっています。でも長靴を履いているから大丈夫。わたしの前にはきれいな新雪が広がり、後ろには、わたしの足跡のみが残されていきます。まだまだ降りつづく雪は、あとどのくらいでこの足跡を消してしまうのだろう…。

非日常の興奮にぼうっとした頭を抱えて帰宅して、長靴を脱ぎ、熱いシャワーを浴び、静かな雪の雰囲気を窓の外に感じながら、わたしはすぐに寝入りました。

(夜半、温かい雨が降っている感触がありました)

驚きは翌朝やってきました。目が覚めていちばんに、わくわくした気持ちでカーテンを開けてみると、雪などどこにもないのです! 地面にはべしゃべしゃした薄いシャーベットのようなものがあるだけ。わたしの足は、わたしの長靴は、重たい雪をガサガサと踏みわけた昨夜の感覚をまだ憶えているのに。

あの雪はいったいどこにいってしまったのだろう…と、昨夜雪のなかを歩いて帰ってきたはずの長靴をのぞきこんでみます。長靴の先はすこし湿って、内部はもちろん暗くてなにも見えず、滑らかでパクパクしているばかり。

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さて、もし、これらの話から何らかの教訓をひきだしたい方がいたとしたら (この世の中には教訓フリークとでも呼ぶべき人たちが一定数います)、意地や偏見を排した眼で見つめ直せば、何歳になっても世界は新しく生まれ変わる、といったあたりになりますでしょうか。または、雨の日には長靴を履くべし、でも構いません。それはとても楽しいことですからね。

ちなみに、わたしには、同様の誤解をしており、長いブランク期間を経たあとで邂逅したものがほかにもあります。マスク、酔い止め、ラジオなど。けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにつづることにしましょう。

futtekita