夜の粒子が沈殿します

第31期(2017年2月-3月)

朝はいつだってわたしを裏切らない。

中学生だった頃に朝型に覚醒したわたしは、それ以降の人生をずっと、言うなれば、朝と手をたずさえるようにして生きてきた。早朝のまだ静かな時間に、クリアな頭で、のっしのしと勉強やお仕事を進めていく。きっちりと着実に何かが積み上がっていく快い感覚。メールを送ってくる人も電話をかけてくる人もおらず、同僚の気配に気を散らされることもない、すてきな独りの時間。

最近「朝活」というものが流行っている (た?) みたいと聞いて、心穏やかでない。ほかの人たちが朝の領域にやってきたら、わたしは、朝を独り占めできないではないか…。新参の朝活者たちに対しては、ことあるごとに、「朝はね、寝られるなら寝ていたほうが良いですよ。わたしは目が覚めてしまうから、しかたなく起きてるだけで…」なんて朝を貶めるような物言いをしながら、心のうちでは、「やめて、こっちに来ないで!!」なんて思っているのだった。

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早朝の、おごそかでシンとした街が好きだ。人も車もお店もまだ眠っていて、コンビニの明かりや街灯が、申し訳なさそうに光っているだけ。ほとんど貸切状態の道路で、たまにタクシーや新聞配達のバイクとすれ違いながら、職場に向かって自転車を進めていく。早朝の空気は澄んでいて、ヒトの匂いがしない。

どこか厳粛な空気のなかで、早朝にはいろいろなものが違って見える。日中はあんなに混雑する上野公園も平安神宮も、ほぼ無人で、さーっと向こうまで見渡せる広い道を、独りすいすい進んでいく。春には、街灯に照らされた梅や桜がぼんやりしている。夏だと、上野公園の噴水のところには、ホームレスの人たちに混じって、始発を待つ人たちがぽつぽつ座っていたりする。冬には、吐いた息が白くなってあとに残る。

建物は黒く無個性に並んでいて、その隙間にあいた小さな路地に、ふと道草をしてみたくなる。ある早朝、四条のあたりで、初めて見る路地に折れてみたことがあった。真っ黒なアスファルトは急に石畳に変わり、街灯もなくなって、すっと冷たい空気が漂ってきた。すこし心細くなりながらも進んでいくと、お寺の山門に行き止まり、たくさんの人が唱える低いお経の声が、かすかに聞こえてきた。

地球が自転して朝の太陽が近づいてきて、真っ先に明るくなるのは空で、はじめのうち大地は暗い。氷が溶けてアイスコーヒーが薄まるみたいに、夜の端っこが薄くなってきて、ときには朝焼けのわずかな紅色がそこに混じる。すこし時間が経って、のろのろ浮かぶ雲のおなかが照らされる頃になると、真っ黒だった大地もやっと明るくなってきて、山の緑や家々の白なんかが見分けられるようになってくる。近所のお寺の鐘やラジオ体操の音が聞こえたりもする。わたしは、そうした光景を、美しいと思う。

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どことなく、夜はやさしくて、朝はきびしい、といったおもむきもある。

夜には、暗闇が、身体や意識のまわりをしっとり包みこんで、妙な安心感を与えてくれる。深夜に向けてその暗闇はさらに濃くなっていくし、朝まではまだたっぷり時間があるから、眠くなるまで、ぞんぶんに夜に浸っていられる。そして、夜の先には、睡眠というさらなる至福のときが待っている。長かった1日の最後の部分の、にごった疲労感と、ほっとした安堵感のなかで、夜にはまだまだ終わりが見えない。

その反対に、朝はつねに終わりの予感におびやかされている。まだ誰もが眠っている早朝に起きだして、独りの世界にこもっていても、もうあと1-2時間後には、出勤の時刻なんかがやってくる。本当に良い朝は、いつまでもつづかない。だんだん人が増えてくるし、眠りの至福までにはまた長い1日を越えなければならない。朝はわたしを包みこんではくれず、そっちはそっちでがんばりなと、そっと突き放す。

馴れ合いを嫌うわたしは、そのきびしさを静かに愛する。

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そして、早朝というものは、ふたつの異なる時間帯からなっている。すなわち、夜の終わりと、朝の始まり。

いったい、夜は細かい粒子みたいなものからできている (と私は想うのです)。宵のうちや日付が変わる前には、人びとはまだ起きて動いているし、電車だって走っているから、夜の粒子は撹拌されて、はさはさと舞いあがっている。ところが深夜になって、多くの人が眠りについて街が静まり、撹拌するものがなくなると、夜の粒子は舞いおりてきて、闇の底に沈殿しはじめる。ゆっくりと沈殿して、溜まりきったピークが、「夜の終わり」なのだった。

舞いあがった夜の粒子に邪魔されなくなるから、「夜の終わり」には、光は透明で、澄んだ空気のなかに草木や土の匂いがよく嗅ぎわけられて、小さな音がよく響く。わたしは、部屋のなかにも沈殿した夜の粒子をできるだけ撹拌しないよう、そろりと布団から抜けだして、静かに動きはじめる。

夜の沈殿はだんだん分解されていって、多くの人びとが動きはじめる頃には、もうあとかたも残っていない。「朝の始まり」とはその移行期のことで、沈殿した夜の粒子がまだかしこに残りながらも、その気配はすぐに弱まっていく。一般的に「朝」と呼ばれる時間帯、「朝の始まり」はもう終わっており、わたしのなかで、その時間帯はすでに日中の領域に属する。


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さて、もし、この文章を読んで、朝もあんがい良いな…と思った方がいたとしても、あまり、朝のことはおすすめしませんからね。朝は、寝られるなら寝ていたほうが良いと思うのですよ。たとえばほら、この世の中には、二度寝にまさる快楽なんて存在しませんよ。…ね? わたしは目が覚めてしまうから、しかたなく起きてるだけで……

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