天国を探して:4

第35期(2017年10月-11月)

図1

 はじめて入った古めかしい喫茶店で注文したホットココアはほんのひとくち飲んだだけで舌の根元が痛くなるほど甘ったるかった。机を挟み向かい合って座っている女のひとについてあたしが知っていることはそれほど多くはない。あたしよりも二歳年上で大学生だということ。この店のホットココアに大きな角砂糖を三つも加えて飲むような味覚の持ち主であるということ。そしてあたしがアサクラ先輩と知り合う少し前まで彼と交際していたらしいということ。それ以外のことは知らない。興味もあんまりないない。先輩とはもう別れちゃったよとあたしが伝えると、彼女は左側の口角だけを上げて満足そうに笑い「あなたも遊ばれたのね。可哀想に」と言った。

 あたしは野犬に会ったことがある。ママに頼まれて近所のスーパーまで夕飯の買い物をしに出掛けた帰り道だった。電柱の影から野犬はぬらりと姿をあらわした。首輪のついていないその犬はまるで狼のように大きな身体をしていたが肋骨が浮かんでおり身体のあちこちにハゲが出来ていた。病気を持っているのかもしれず噛まれたりすると危ないかなとは考えたけれど怖さは不思議となかった。犬はあたしが右手に持った買い物袋をじっと見つめていた。あたしはその中から買ったばかりの生肉を取り出すと包装を解いてから犬に投げて渡した。すると次の瞬間、犬は肉に飛びつき、ハッハと息を鳴らしクチャクチャと音を立てながら喰らった。

 アサクラ先輩のカバンの中にはコンビニのおにぎりとかポテトチップスとか自分で作ってきたお弁当とか様々な食物がかならず入っていた。先輩はいつもお腹を空かせており常に何かを食べていたのだけど何を食べても不満げな表情をしていた。「何を食いたいのかがずっと分からない」と何度か口にしていた。
 アサクラ先輩とするセックスはあの日に見た野犬の姿をあたしに思い出させた。棒っ切れみたいに痩せた身体であたしの身体を押さえつけながら一心不乱に貪り喰うように抱いた。彼にとってセックスとは愛情のやり取りなんかではなく果のない空腹感のような何かを満たすための行為だったように感じた。あたしはそれが少しも嫌ではなかった。いつか死ぬ時が来たら自分ではない生き物にこの身体を食べてもらうのも悪くないかもしれないと思った。

「近所に野良犬が出たらしいわ」とママから聞いたのはあたしがあの野犬と出会った次の日のことだった。ママの話によると野犬はスーパーの駐車場で発見され、その後、通報を受けてやってきた保健所の職員に連れていかれたそうだ。「狼みたいに大きい犬だったって。そんな野良犬が居るだなんて知らずに昨日は、あなたをスーパーまで買い物にいかせてしまったけど、あなたに怪我がなくて本当に良かったと思うわ」そんなママの言葉を聞き流しながらあたしは、あの野犬がこれからどういう目に合うのだろうかと想像して唇を噛んだ。

 甘ったるいばかりのホットココアを一気に飲み干すと喉の奥が不愉快に粘着く感覚が残った。あたしの中に取り込まれたこの強烈な甘味はこれからこの身体の何になるのだろうか。「あなたも遊ばれたのね。可哀想に」とあたしに言った女のひとは右手の人差指に着けているくすんだ色の指輪を、ときどき親指で弄った。彼女がどうしてあたしに声を掛け、この喫茶店につれてきたのかはいまいち分からないが、例えば五年後とか十年後にもしも今日のことを思い出すことがあったら、きっと彼女の指の仕草は脳裏を過る気がする。まだ甘さの残る唇を舌で軽く舐めてからあたしは口を開いた。名前も知らないこの女の人に対して反論したたいことがひとつだけあったからだ。遊ばれたんじゃないよ。そう声に出した。遊ばれたんじゃない。一緒に遊んだだけだ。