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2F/当番ノート

天国を探して:5

当番ノート 第35期

図

 今年の四月に入社したアサクラは嫌なやつだった。口数が少なく表情にも乏しく可愛げがなかった。挨拶が出来ず飲み会には出席せず先輩に対する礼儀というものがなっちゃあいなかった。けれど呆れるほど仕事が出来る男だった。ひとたびパソコンの前に座らせれば新人離れした豊富な知識量と並外れた機転で以て、この道十年の上司たちでも手を焼くような無理難題でさえあっという間にいう間に解決してみせた。その働きぶりは社内の誰からも高く評価された。
 アサクラは社交性なんかまったく持ち合わせていなかったがその有能さが明らかになると周囲があいつを放っておかなかった。愛想のなさはむしろ好意的なギャップとして受け取られた。社長や上司は何度もあいつを昼食に誘った。社内の若い女たちのうち何人かはあいつに抱かれたのだと聞いた。秋を迎える頃になると入社半年にも満たないアサクラは四年目のおれよりも明らかに重用されていた。おれの三年半は何だったのだろうかと自問自答することが増えた。そしてアサクラを妬ましく思った。あいつはおれが欲しいものを何でも持っているかのように見えた。それなのにあいつはいつ見てもつまらなそうな表情をしていた。

「引っ越しするんで手伝ってくれませんか」冬のある日の帰り際にアサクラはおれのことを呼び止めて言った。あいつが自分から他人に話しかけるところなんてそれまでほとんど見たことがなかったのでおれは驚いた。呆気にとられて返事をせずにいるとアサクラは頭を深く下げてもうひとこと「おねがいします」と低い声で言った。おれは断れなかった。

 その週末にアサクラのマンションを訪ねるとおれは唖然とした。
 デスクの上には最新式のパソコンと化石のようなワープロが並べられておりその横には幾つかのトロフィーやメダルが無造作に置かれていた。本棚には小説の文庫本や技術書や新書がぎっしりと詰まっていたがその中にはアニメのDVDや子どもに読ませるような絵本も紛れ込んでいた。クローゼットの中には普段来ている洋服だけではなく古びた野球グローブや空の水槽やアザラシのぬいぐるみが保管されていた。壁には無地のカレンダーとグラビアアイドルのポスターと呪文のようなものが書かれた半紙と少年漫画の切り抜きが貼りつけられていたし、ベランダの室外機に立てかけられていたエレキギターはには誰かのサインが書かれていた。
 決して散らかっているわけではなかったが置かれているものの数々に統一性のようなものが少しもなく、異なる価値観や趣味趣向を持っている人間が何人も身を寄せて暮らしている家のようだと感じた。こいつはいったいどんな人間なんだろうか。部屋の様子を見ておれはますます分からなくなった。
 引越の手伝いだといわれて来たもののおれが頼まれたのは室内にあるものをひとつ残らずマンションの地下のゴミ捨て場まで運ぶことだった。新居には何も持って行かないつもりなのでこの部屋にあるものはすべて処分してから出ていくのだという。「欲しいものがあれば持っていってください」とアサクラは言った。貴重なものも少なくない気はしたがいずれもどこか禍々しく見えたから仕事に使えそうな技術書だけを何冊かだけ貰った。それにしてもこれだけのものを全部捨ててしまうというのは大胆だと思ったので女と同棲でもするのかとおれが訪ねると「まぁそんなとこです」とアサクラは控えめに笑った。あいつの笑顔をおれが見たのはあの時だけだった。

 週明けに出社するとアサクラが退職したという話を上司に聞かされた。アサクラが居なくなった分おれたちの仕事は幾らか多くなり、社長や上司や女たちはあいつの不在をずいぶん惜しんでいたけど、一ヶ月も経てばそれらも落ち着いて、会社はアサクラが入社する前の状態に戻った。

辺川 銀

辺川 銀

小説家/ライター
ペンギンが好き
ねこも好き

Reviewed by
ムコーダ マコト

妬ましいほど欲しいものをたくさん持っているはずのアサクラ。
何でも持って行っていいと言われてみて、選んだものは……。
本当に欲しいものを、もう一度考えなおしたくなった。

改めて自分の部屋を掃除してみようと思った。大切なものも、要らないものも、捨てられないものも出てくるだろう。欲しいものは、見つかるだろうか。

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