死者から生まれる民俗芸能 ー過疎集落での民俗芸能の継承事業から②

第40期(2018年8月-9月)

滋賀県にある朽木古屋集落は都市圏より涼しい土地柄です。京都まで車で1時間ほどの地点にありますが、気温にして5℃は京都や大阪と比して低いように思えます。標高差もありますが、1200年ほど前より若狭から京へと海産物を運び、文化を形づくってきた鯖街道沿いに清流が流れていることもその要因かもしれません。

気候や降水量、生態系など土地の条件によって、なにを生業とし、どのような生活が営まれるかは異なります。その環境によって人間が生まれ育ち、死んでいく以上、必然的に祈りの形態もその条件に依っていきます。生活が海によって営まれるなら、死者は海を行き来し。また大文字焼きなど火に死者をみる土地もあれば、朽木古屋のように川から死者を迎え、川に死者を送る土地もあります。水田による稲作と山から切り出した杉や桧を川に流して京へと納めていたこの古屋において、川もまたさまざまな異界とを繋ぐ路であったのです。

8月14日の夜、朽木古屋の六斎念仏が奉納されました。山車に乗った大太鼓の響きに、笛と小太鼓、また鉦の音が近づいてくると家主は仏壇を開け、祖先とともにその庭先で舞われる六斎念仏に接します。発願から始まり、選択されるひと演目(オヒヒャル/ミコノマイ/オカサキ/イッテンガエシ/シシから一軒につきひとつ)、そしてウチアゲロクダンと舞いは続き、祖霊へと唱えられる念仏と鉦による後念仏まで。これで一軒分、およそ20分ほどです。このようにして集落内の家々を一軒一軒、今夏は7軒を回りました。いまは仏壇で額縁に収まっている祖先たちも、幼いときからこの六斎に触れ、舞い、担ってきました。

遅くまで続く六斎念仏の翌朝には、各家々で川に祖霊のための小さな家をつくります。石や土で設えられたその家には花が手向けられ、日を跨ぐ午前0時頃、家の仏前に供えられていた食物をそこに供え、祖先もその川の流れに乗ってまた彼岸へと帰ります。この河原仏が終わる頃には古屋へと帰省していた方々も現在の生業のために都市へと戻っていき、いつもの静かな古屋へと還っていきます。

さて、前回「芸術と芸能は元来異なる」というお話をしました。芸術と芸能を掛け合わせて六斎念仏の継承をおこなうとき、それぞれに本来的に持ち合わせる機能とはどのようなもので、どのように異なるのか。そこに意識を置くことは芸術/芸能双方の行く末、ひいては我々の未来を考えるに重要だと。その歴史を、すこし紐解いてみましょう。

現代日本における芸術の概念は西洋由来の価値観が多くを占めています。明治維新以降、早急に西欧列強と同様の国力を持たなければ清国のように植民地状態にされてしまうと危機感を募らせた新政府。西洋に習った近代化によって富国強兵を図ります。さまざまに打たれた近代化への施策のひとつに芸術教育もありました。同じく西洋から輸入された民主主義は個人の尊重を念頭に置く表現の自由と両輪の思想です。つまり、芸術は民主主義を成り立たせるに不可欠であり、岡倉天心による東京藝術大学の開校を皮切りに日本における西洋由来の芸術教育がはじまります。

一方、日本における芸能(特に民俗芸能)は祖霊供養や五穀豊穣など宗教的な祈りと結びつきながら、柳田國男が常民と呼ぶ無名の民たちによって何世代にもわたり連綿と受け継がれてきました。それは日本という土地に生きるわたしたちの由来やそのアイデンティティを得るに重要なアーカイブである一方、開国また終戦後の社会構造の変化により全国各地でその継承が危ぶまれていることは前回までに述べたとおりです。芸術が個人を念頭に成り立つのに対し、芸能は愛郷心や神や自然への畏れ/敬いを育みながら集落などの集団を念頭に、そこで生きるに必須である身体性や精神性を獲得していく。いわば明治以前における教育的要素を果たしてきたように思えます。つまり、芸術においては個人に、芸能においては集団にそれぞれ視点があると思われます。

民主主義の前提となる個人尊重の芸術と、日本的集団思想を継いできた芸能。双方に良さと危うさがあります。言い換えれば、この新旧方向性の異なる重要な概念を安易に混ぜ合わせている現状では、日本において未だ独自の民主主義思想は成り立っていないとも言えるでしょう。芸術と芸能、それぞれの機能の違いに意識をおきながら、どのようなバランスのもとにそれは両立し得るのか。この六斎念仏の継承事業に限らず、こんなことを思考錯誤しています。次回は芸術の側から。東京で18日に実施した『踊り念仏』という演劇作品について述べながら、日本における芸術と芸能の関係性についてさらに思考を深めていきます。