死者から生まれる民俗芸能 ー交歓する農業と芸術②

第40期(2018年8月-9月)

タイトルの「農業と芸術の交歓」から、思い浮かぶのは宮沢賢治かもしれません。仏教信仰と農民としての生活を起点に創作を続けた彼は、『注文の多い料理店』や『アメニモマケズ』など後世に残る芸術作品を生み出しました。一方で宮沢は1920年に国柱会へ入信します。その国柱会は戦前の国家主義を牽引する八紘一宇思想の形成とも絡み、その後の太平洋戦争へと連なっていきます。ただ留意しなければならないのは、八紘一宇という造語を日本書紀の記述から形成し、国柱会を結成した田中智學は戦争反対論者であったという点です。田中はときの政権・第二次近衛内閣が八紘一宇を大東亜新秩序の根拠として取り上げる前年、1939年に亡くなっています。

宮沢賢治はまた『農民芸術概論綱要』という文章を1926年に記しています。今回はその一節を引きながら、現在滞在している奥八女笠原地区での出来事を共有したいと思います。

「農民芸術の批評
……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……

批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ
誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る
産者は不断に内的批評を有たねばならぬ
批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある
破壊的批評は産者を奮ひ起たしめる
創造的批評は産者を暗示し指導する
創造的批評家には産者に均しい資格が要る
観照的批評は完成された芸術に対して行はれる
批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ
斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る」

『農民芸術概論綱要』宮沢賢治著 1926年
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html
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8/29-8/31におこなわれた奥八女芸農学校でのレクチャーとワークショップを終え、いまは笠原に住まう方々へインタビューをしています。その上で、たとえば『農民芸術概論綱要』で述べられている「外芸術」に対する批評はこの地域にどう成っているのでしょう?

インタビューの際は各家へお伺いし、まずは自己紹介をします。奥八女芸農学校の話をすると「ああ、毎年よくわからないことをやっている、あれね」と、大体はこうなります。まず前提としてアートとは地元住民の方たちにとって「よくわからないもの」。でもみなさん、都市民にありがちな捻たような、相手を見下すところなく、快くお話してくれます。

「笠原の民俗芸能をつくる」目的でインタビューをする今回、訊くのは主に三つ「内輪でも良いからこの土地で面白いと思えたことは?」「この土地の地域性とは?」「この土地の祈りとは?」。すると、現代の日本の多くの土地が抱える課題「人が少なくなった」という点に集約されていきます。その上で「じゃあ、なにができるのか?」を考えるためには、どれだけその土地を批評的に捉えられているかの「内的批評」が重要でしょうが、問いかけてもそうした批評性をもった応えが出てくることは少ないです。

ひとりだけ、その「内的批評を不断に有する産者」がいらっしゃいました。その方は家具職人さんでこの集落を一望できる山の上に住んでいます。その山の上にかつてあった広大な養鶏場を解体する約束で土地を譲り受け、三十数年前に笠原へと移住して来ました。毎朝一時間ほどかつての養鶏場を眺め「どこからどう解体しようかな」とぼんやりタバコをふかし、半年を掛けて養鶏場をバラしました。また家と作業場を自身でつくり、過疎の進むこの土地を起点に一点物の家具をつくることで生計を立ててきました。

「それは芸術家の営みとは違うのですか?」とわたしが聞けば、「芸術家ではなく、職人とものづくりの間の職能」と答えた彼は、職人とものづくり、そして芸術家との違いを彼自身の言葉で語りました。その後も他所の中山間地域と比較しながら、山地の再改良や住宅供給の課題などを具体的に語ってくれました。そして最後に、「この土地を変えるには地域の考え方を変える必要がある。彼らにはなかなか理解できないようだが」と加えました。

さまざまなヒエラルキーの上に集落は成り立っているので、ここに詳細は書けませんが、一代でこの土地に生きてきた経験も作用するのでしょう、彼は宮沢賢治がいうところの「産者」としての資格を十分に満たしていました。そして、そうした「産者」としての力が、冒頭に引いた八紘一宇思想を含む、大きな時勢の流れを的確に判断する力となると思えます。宮沢はその自身で判断する力こそ芸術に求めていたのでしょうし、それは芸術に置かずとも、時代に関係なく常に個人へと求められていく力だといえます。