死者から生まれる民俗芸能 ー交歓する農業と芸術④

第40期(2018年8月-9月)

未来へ向けた「土台」として笠原地区における民俗芸能を提示し、今年度の奥八女芸農学校は終わりました。民俗芸能と芸術とを行き来することで日常を見つめるに、手応えを得られた仕事となりました。仕事によって今後の指針が得られることは喜びです。今回コーディネートを担っていただいた山村塾や九州大学ソーシャルアートラボの方々、そしてロシアと香港からのクリエーションメンバーにも恵まれました。ありがたい話です。

たとえば、宮沢賢治が『農民芸術概論綱要』で言及した農業と芸術とは確かに親密性があると体感できたことは収穫です。「読めば理解できるじゃん」と思われるかもしれませんが、身体で実感できるかどうかはそれを今後に活かすに大きな違いだと思えます。さらに、農民に限らず人間誰しも生きるに育む「日常における芸術性」が無意識下にあると個人的には思えます。今回は笠原での芸術性を見出し、表現に昇華したことになります。ただ、以前にもお伝えしたように「その表現とは芸術なのか、芸能なのか?」。滞在中、地元の方からも実際に問われる場面がありました。思考し続けた結果、それは波打際を明確に分け隔てることなどできないように、際どく淡いものだと捉えています。時代の満ち引きによっても、また変容してしまう。その芸術か芸能かの違いを生み出すものは人間が置かれる環境の違いに依るのかも、とも。つまり、個人の育みがその生活により必要なのか(芸術?)、自然など大いなるモノとの対峙がその生活により必要なのか(芸能?)。いずれにせよ、芸術/芸能ともに隣り合う土壌に根を張り合い、絡み互いに影響を与えながら、しかし確かに別個に存在しています。

この連載で記してきた朽木古屋の六斎念仏から続く滋賀ー東京ー福岡の2ヶ月の滞在を踏まえ、また幕府/藩/国家/地方行政による歴史的出来事と、そこに関連する芸能と芸術の小さな歩みとその結果から、その違いの仮説を抱いてはいます。しかし、それを今週にお伝えすれば最終回を迎えてしまう、笑。以下は今回の笠原の芸能を提示しての地元の方たちの反応を書き記したいと思います。それは決して蛇足ではなく、最終回となる来週へ向けてその芸術と芸能の隔てを考える、そして時代に依らずわたしたちが尊厳を保つための要素となるでしょう。

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笠原における芸能を提示してみて、反応が多かったのは芸農学校の受講生の側でした。その芸能の一つひとつの動きは笠原という土地の地域性や祈りなどの「意味合い」を折り重ねて構成されていますが、そんな意味合いは観客にとって、ある種どうでも良いことだと思えます。意味を知ってはじめて納得するのではなく、芸能をみてどのように感じるのか。その結果、こちらが抱く意味合いとズレていたとしても、多くの反応が挙がった事実は受講生たちの琴線に少なからず触れたのだと思えます。しかしそれは、いわゆる芸術の知識が受講生たちにあったからとも思えます。今回は笠原という土地に合わせた芸能をつくったわけです。同じ時間と空間を共有した地元の方たちは、それをどのように捉えたのか?

住民の方たちからの意見は数時間後、または翌日、さらには翌々日と時間を経て、囁きのように届きました。それは集団としての共有が躊躇われたからなのか。自身の考えをまとめるのに時間がかかったのか。いずれにせよその多くは朴訥な、わたし個人への語りでした。「アーティストというのも私らと同じく、因果な生業だなあ」と切り出したひとりは芸能自体の感想はひとつもなく、笠原での例を引きながらの現代の日本社会の批判をし、またあるひとりは芸能の際につくり出されていた空気感と日常の佇まいとの違いを。あるいは今回の芸能の構成の仕方に批判的な方もいました。いずれにせよ、ひとまずはそうした反応を得るために芸能をつくったので、そうした様々な応えが住民の方たちから返ってきたことはよかったです。そうした応じがこれからを形づくるのでしょう。