死者から生まれる民俗芸能

第40期(2018年8月-9月)

徳川三代目の将軍である家光期に発令されたとされる慶安御触書(けいあんのおふれがき)には、「百姓は財が余らぬよう、不足しないよう、死なぬよう、生かさぬように」といった農民統制の指針が32か条にわたり記されています。農民の意識を政治へと向けないための、いわゆる愚民政策として発布されたこの触書は、少なからず当時の農民たちの生活に影響を与えたといわれます。そのような規制下でも禁止されている絹製の下着を着用し、袖口や襟周りなど見える部分を木綿で包み隠すといった方法で対するなど、日常の楽しみを出来る範囲で広げてきた農民たち。規制への抵抗は時代の進展とともに次第と強くなり、先の笠原地区を含む黒木町では宝暦一揆(宝暦七年/1757年)後に、特別に遊楽の日を与えられます。平常の労働活動の心労を癒すためとして一年に三日の特別休暇を与えて、藩へ申し出れば村ごとに人々好みの遊芸が許されます。また、遊楽催方取計頭書(元治元年/1864年)には「平年作の年は年に一度、1日あるいは両日に限り遊楽を願い出た村は許す」と記載があります。長く継がれてきた遊芸/民俗芸能は、こうした権力統治から先人たちが勝ち得、守り抜いた権利ともいえるでしょう。

上記からして民俗芸能とは、没個性化によって集団を保持しようとする権力構造に対する、個の象徴といえます。この点、芸術の及ぼす個々人によって民主主義を成り立たせる機能とも近しい。一方で、民俗芸能の中心に据えられる対象は祖霊や精霊など八百万であり、想像の産物です。そうした人間には捉えきれない対象へ向けた祈りの手法として、民俗芸能はあります。また、民俗芸能の多くは口承で継がれてきました。文字に残さず、集落内で言葉を添えながら身振りから身振りへと継ぐ行為は、個性の表現として絹の下着を忍ばせるように、ときの権力からの干渉を避ける知恵ともいえます。そうした時代時代、またそれを継ぐ個々人の個性による揺らぎが芸能を育み、また発展させてきました。ただ、祈りの対象が明確でないため、誰かが意図をもってその芸能の在り方を暗に操作し、神の名の下にその操作者は隠れつつ、集団を変容させることもまた容易です。

民俗芸能と芸術とを現代に交差させる活動は、芸能と芸術それぞれの特性を現代に活かすための方策とわたしは考えています。長く培われてきた民俗芸能の智恵を用いることで、誰もが無意識に育んでいる「日常の芸術性」を見出し、表現に昇華する。それはその土地性や個人を価値づけ共有し、画一化されていくその固有性を次代へ繋いでいくことに連なります。また、民俗芸能を現代に活かす回路の提示は、開国期の欧化政策から続く生活観、ひいては芸術観の問い直しともなるでしょう。

さらに拡張すれば、その民俗芸能と芸術との交歓は「アジアの表現とはなにか」を考えることにもなります。現代日本に継がれる民俗芸能と現在に生まれる芸術とは明治期に断絶があり、それをどのように繋ぎ直せるか。一方で、芸能と芸術とを安易に混合することは、先のとおり、個人と集団の構成の仕方がそれぞれ異なるために危険だと考えています。わたしなりにそれを定義し広く提案しながら、現代における接続点を見出す。その積み重ねによって民俗芸能、芸術ともに固有性を保ちつつ、古来より通じる新たな地平を現代に踏めるのではないかと考えています。

参考文献:黒木町史編さん実務委員会編 1993年 『黒木町史』黒木町

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長々綴ってまいりました『死者から生まれる民俗芸能』も今回で最終回となりました。お付き合いいただいた方、どうもありがとうございました。週ごとメモ感覚で綴ってまいりましたので、ときに読みづらく、また事実誤認もあるかもしれません。そうした点、ご指摘いただければ幸いです。改めて推敲/加筆修正した上で、年度末までに何かしらの形で発表できればと思っています。