新アップルパイの冒険 5

長期滞在者

描けなくなると何だか食べるものを念入りに作りたくなる。食べて速やかに解決したりはしない。しかし、丁寧に作ったものを美味しく食べると、くしゃくしゃになった気分の灰汁が取れるような気がする。

凝ったモノではなく、冬だったら金柑を煮たり、春はイチゴ、今回はやらなきゃいけないことが纏まらなくて、Twitterで「アイスクリームに梅ジャムはキケンです」とつぶやいていたひとの言葉に乗っかって梅ソースに挑戦した。買えば、時間を節約できるのだが、スーパーに梅が出でいるし作ったれと思う。ネットでレシピを幾つかあたり、小粒の黄色くなりかけの梅が安くなっていたので買った。

追熟させるために一日風通しの良いところに置く。その後、二十四時間以上冷凍庫に入れる。出してから、半解凍の状態でへそ(茎の部分)を取って皮を剥く。つるつると皮を剥いて、ステンレスの鍋(あれば琺瑯鍋か土鍋が良い)の中でお砂糖といっしょに煮る。梅と砂糖の割合は1対1だが、酸っぱい方が好みなので、同量よりも3割少なくなるよう調節した。火はとろ火。鍋がグツグツ言い始め、沸いてくる小さな泡を掬い取る。何度も。とろみがついてきたら、火を止め味噌こしを使って裏ごし、種だけを取り除く(とろ火にして、鍋が煮えている間、梅ソースを入れる瓶と蓋を熱湯消毒しておく)。梅ソースは、熱いうちに壜に詰める。冷えたら蓋をきっちり閉めてから冷蔵庫へ。

手順はこんな風。

梅ソースは、アイスリームにかけたり、プレーンヨーグルトと垂らしたり、生野菜サラダの隠し味に入れたりする。炭酸水にレモン少々と大さじ一杯の梅ソースをクルクルとかき混ぜ良く溶かし梅ソーダ。ミントの葉が一枚あればもっと気分も爽やかに。

その間、進めなくてはならない作業はあまり変化がないようにも見えるが、イライラしない時間はまるで何かに守れているよう。

振り返れば、ガミガミ言えば子に伝えたいことが伝わるのでは思っていた若き母は、ご飯の支度に加えて、せっせと惜しみなくお菓子を作る時間を持っていた。大変である。一手間も二手間もかかり、必ずしなくてならないことでもない。母の母(わたしの祖母)は旧家のお嬢さんで跡取りで、お手伝いさんが居て、お料理も得意じゃなかったらしい。しかし、伝えられなかった母は、学校へ行き本でも調べ、実に良く食べ物をこしらえたのである。菓子類の他は、ウメボシや白菜も漬けるし(こちらは実用)、味噌を作っていたこともあった。父は、そのことを評価すると、じぶんの価値が下がるように感じるらしくめったに誉めなかった。誉めると負けたような気になるらしい。家政科をおしゃもじ学校と言って憚らず、自分が出た国文学の方が高級と言いたい余裕の無さは、差別というより愚かに近く、昭和男児の女子理解がどんなに浅いか示すものであろう。父はケチだった。自分の持っている国文学と、母の持っている料理の技、どちらが優れているか決めないと心の均衡が保てないからである。

ところで、わたしの場合、料理の腕を上げるという向上心よりもっとシンプルなモノを求めている。丁寧作れば、そういう肌合いみたいなことが作ったものから感じられて、とげとげしいものも影を潜めるように思うのだ。ほんの一時であっても。

もやもや分析をしていたら、先日、星が丘(大阪)のソーイングギャラリーに行く機会があった。

わたしは、夏に、関西の「協同企画展おんさ」の手伝いをしている。搬入やギャラリー番をしたり、懇親会で振る舞う料理を他のスタッフと一緒に作ったりする。なぜ裏方の仕事に顔を出すかと言えば、一人で作って一人で展示をやっていると、ひとが全然見えなくなるから。一番最初にボランティアスタッフを申し込んだときは、何だか分からないモノに飛び込む気持ちだった。けれども、それをしなくてはいけないと思ったし、絵を描くひとを表側からしか知らないことは何か足りないように感じ始めていた。憧れという眩い距離は、嫉妬にも繋がっていて、文字通り惑うことがある。

ギャラリー番のために行って、折からの台風で雨がザーザー降り続け、お客さんはさっぱり来ない日だった。ギャラリーには、園長先生がいらっしゃって二人おしゃべりをした。今年はじぶんの作品を出していないこと、思うように描けないことのついでに、なぜか梅ソースを作っている話をした。先生は、最近作った残り物の野菜炒めが、あり合わせの残り物だったけれど、取り合わせと言い火加減もよくてごちそうだったことを思い出される。そこで、ふたりして、自分で作った食べ物が美味しいことがどんなに気持ちを整えてくれるかについて話し合う。ひとのために作り、他人から評価されることも良いけれど、それは表層部分で、わたしたちはカラダの軸を思い出したい時がある。お裁縫だったら運針のような、スポーツの前のストレッチにも近い、準備の動作。日常生活や自意識に追われバラバラになったものをもう一度整える。

美味しいが分からない父(本人によれば戦後食べ物の乏しい時代に育った)と、美味しいが何だか競争になってしまう母(勝ち気や美意識が先行して)と、美味しいをひたすら撫でていたいわたしと。ぐちゃぐちゃしていたものが、その日は一旦パタンと解けた。わたしの中にも全部ある。落胆もないわけではないが、どうして、ある材料で作らないのかって指摘されたようなもの。

これまで絵を描くことは、あり合わせの材料でご飯作るのとは別にあって、もっとずっとハレなんだと思ってきた。あり合わせのご飯じゃだめみたいな先入観があって、ダメなんだと思う焦りばかりでは、柔らかい気持ちは育まれない。そんなセンテンスを拾って家へ帰る。梅の季節は短いので、次は、キーウィを物色しているところ。

*文化は作られるものではなく、人と人が関わることで自然発生的に生まれ、ゆっくりと育まれていくものだと考えています。そして、それは我々で育てていかなければなりません。ここから生まれた共鳴もそれぞれは小さな音かもしれませんが、それが文化の源になることを願っています(「おんさについて」より引用)。ソーイングギャラリーの展示は26日で終わりますが、第8回おんさは、引き続き他会場において開催されます。ぜひご高覧下さい。http://onsa-pr.info/2015_exhibition/