うしろめたさの塩梅

長期滞在者

いかにも何か大事なことが書いてありそうな本。やわらかな質感の桃色の表紙に、ミントグリーンの太い帯が巻かれたその本を書店で見た時、まずそう思った。本の名前は『うしろめたさの人類学』。著者はエチオピアでのフィールドワークを続けながら、文化人類学を研究している松村圭一郎さん。個人的な感情である「うしろめたさ」と人類学が、どう結びつくのか。帯を見てもわかるようなわからないような……だったけれど、本の放つ説得力に押されて、読み始めた。

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松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)

エチオピアには物乞いが多い。街にいると手足のない障害者や子供を抱きかかえた母親が近寄ってきて、手を差し出されるという。松村さんがまず「うしろめたさ」を感じたのは彼らに対してだった。圧倒的に豊かな日本で暮らしている私たちに向けて差し出される、細い彼らの無数の手。エチオピアに行ったことはないけれど、それがどんな気持ちかは想像ができる。エチオピアを訪れた多くの日本人も、同じように戸惑うという。
松村さんがエチオピアの首都をはじめて訪れた時は、裸足の子どもらが「マニー、マニー」と声をあげながらついてきたという。戸惑った松村さんは、ポケットの中にガムを入れておいて、せがまれるとこれを渡すようにした。たしかにお金をあげるよりもしっくりくるし、自分にもこれならできる気がする。
しかしなぜお金は駄目で、モノなら良いのだろう。

松村さんはそれを、”ぼくらが「商品/経済」と「贈り物/非経済」をきちんと区別すべきだという「きまり」にとても忠実だからだ”という。
僕たちはガムを分け与えることには慣れているけれど、お金をあげることはそれがたったの1円であっても、ほとんど経験がないからうまくできない。日本ではお金をあげることは商品や、労働の対価としてであって、何らかの交換条件として支払うものだという「きまり」に、知らず知らずのうちに従っているのだ。でも、物乞いにお金をあげても彼らは自分に何かをくれることも、代わりに何かをしてくれるわけでもない。だから日本人の多くはその「きまり」に従って、物乞いに何もあげないことを選ぶ。
でもエチオピアの人たちは、おそらく日本人よりもお金を持っていないにもかかわらず、突き出された腕があれば小銭を取り出し、手渡す。贈り物としてお金を渡すことに抵抗がないし、渡したことで物乞いに何かをしてもらわなくても気にしない。

ここからは、無意識のうちに僕たちが従っている社会のルールが見えてくる。そのルールは国や文化によって違っているから、自分と異なるものと触れあうことで、いいところを取り入れたり、疑問を持ったりすることができる。松村さんは日本とエチオピア、二つの異なる社会を行き来して、その「ずれ」から別の世界を想像する。こうして世界を再構築しようとする試みが、この本が掲げる「構築人類学」のポイントでもある。

そして、もう一つの重要な点が「うしろめたさ」、あるいはそれについて考えることだ。それは僕たちはなぜ物乞いを前にした時、何かをあげなくてはいけないと感じるのか、という問いから立ち上がる。
松村さんはこれを、僕たちに共感する能力があるからだとする。エチオピアの人たちの多くは体の弱った物乞いを見て、彼らの境遇に心を動かされずにはいられない。共感を覚えた時、思わず行動せずにはいられなくなるバネのような感情が、この本で示される「うしろめたさ」だ。うしろめたさはたとえば小銭を手渡すという「贈り物/非経済」行為を喚起する。
一方で、贈り物ばかりで世界がまわっているわけではない。経済を続けるために、ドライにいることが必要な場合もある。「商品/経済」行為は共感の感情を抑え込み、利害関係を重視することで成立するものだ。でも、日本では共感しなくても社会が滞りなくまわるように、すべてにおいて経済のモードが張り巡らされすぎている。それは結果的に、とても窮屈な社会を作りだしてしまっている。おかしな人や、利害関係からこぼれ落ちる存在を「いなかったこと」にしてしまう。

「いなかったこと」にすることには、必ずうしろめたさが存在するはずだ。だけど窮屈な社会のルールに従い続けていると、いつの間にかうしろめたさから目をそらすことに慣れてしまう。そんな自分を正当化できるようになってしまう。

うしろめたさから目をそらすことを、正当化できる社会。本の序盤では、エチオピアとの対比をもとに、その日本社会の構造を解説していく。
自分のずるい部分に光を当てられるようだった。これまでに正当化してきた色々なことが思い出される。一番身近なことでいうと、本の中でも例としてあげられているけれど、自分が満員電車で座っていて、目の前にお年寄りが立っているのに、昨日寝不足だったからとか何かと理由をつけて寝たふりをすること。寝不足といってもYouTubeを見ていたとか、そんな理由なのだけど、これから仕事に行くんだからなどとまた理屈をこねてしまう。
その時の自分には「このまま座り続けていたいから」という気持ちももちろんある。だけど言われてみると、それ以上にそこで発生するコミュニケーションを億劫に感じている気がする。知らない人のために何か行動を起こすことを、疲れると思ってしまう。自分の利益を絶対に譲りたくないと思っているというより、共感に対して、心を閉じている。
多分、自分と同じ人は少なからずいる。席を譲らない若者についてのニュースで、譲らない理由を「『そんなに年寄りじゃない』って怒られるんじゃないかと思った」と説明しているのを見たことがある。これも実際には、「怒られる」ことを一番に心配しているのではなく、コミュニケーションの面倒臭さを正当化しているんじゃないかと思う。それはみんな、共感を差し引いた社会に慣れすぎた人たちなのだろう。

それを続けた先にあるのは分断だ。エチオピアから帰ってきた松村さんは、日本社会のスムーズさに、いびつさを覚えるようになる。そのいびつさは、日本はあらゆることがスムーズにいくように、感情をコントロールしている社会なのではないか、という問いに行き着く。そうして感情と社会の関連性について考え、続いてその社会を作り出す「関係」について考え、小さな関係の集合である国家、大きな国家同士をつなぐさらに大きな市場……と、つながりを維持したまま視野を少しずつ広げて、この世界の成り立ちを見ていく。
国家や市場の話は、いきなりされていたら「自分たちの範疇を超えている」と思ってしまったかもしれない。でも、この本では言葉が尽くされているおかげで、それが自分たちの生活と地続きにあることが想像できる。ごく個人的な「うしろめたさ」と、巨大な「人類学」は、こうした丁寧な筆致で結びつけられている。小さな歯車が無数の歯車と噛み合って、大きな歯車を動かすイメージ。「社会の歯車」というとネガティヴに聞こえるけれど、この歯車にはたしかな手応えがある。
大きな歯車へ行き着いたあとで、再び私たちという小さな歯車へと戻ってくる。キーワードは再び「うしろめたさ」、そして公平について。松村さんは東日本大震災や熊本地震を例に挙げ、あの時ボランティアや義援金を送る行為をした背景には、僕たちの中に公平さを希求する感情、被害を受けた人がいる中で、自分たちは普段とさほど変わらない生活を送れていることの「うしろめたさ」があったとする。そんな風に”倫理性は「うしろめたさ」を介して感染していく”。

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うしろめたさを倫理にして、社会の新たな見方を提示する内容はすごく面白かった。でも、ここで書かれているほどきちんと、うしろめたさを原動力にできるかと問われると、何も言えなくなってしまう。公平さを希求する感情と同じくらい、自分さえ良ければいいという感情も持っていると思うからだ。心の内の密やかな感情を、自分はこれからも見ない振りをしてしまうだろうし、「うしろめたさを覚えている」ということだけで自分を許して、言い逃れることだってあるんじゃないかと思う。うしろめたさは、口の中に嫌な味が広がるようなものであると同時に、とても甘美な痛みでもあるからだ。痛みを感じていることを免罪符にしてしまえる。だけどそういう身勝手さにもある種の人間的な愛おしさがあって、そのままでいい、とも思う。もちろん、それだけでは駄目なのだけど。塩梅が難しい。見ない振りをやめる前に、まずは見ない振りをしていることをきちんと自覚すること。自分はまずそこからだと思う。

だけどうしろめたさや公平さという頭の片隅にあったものについて、ここまで目をそらさず向き合ったことはなかった。気づいていなかったことよりも、見ないふりをしていたことのほうが、向き合うのにはエネルギーが要るし、一人でやるのは難しい。本という他者は、それを可能にする。