美しい「同じ」に、惑わされず

長期滞在者

自分がゲイであることは、なるべく早めに言うようにしている。単に「彼女はいる?」「好きなタイプは?」といった質問に嘘をつき続けるのが負担なのと、時間を重ねるほど言い出しにくくなってしまうから、そうしている。だからその人と今後も関係が続いていきそうか、偏見が少なそうかを確かめてから言うし、言わないこともある。
言った時には、その人にとって「生まれてはじめて、現実世界で出会った同性愛者」になることもある。こちらが選んで言っているから、相手にも何らかの知識があることが多くて、明確に拒否されたり、からかわれたりすることはまずない(昔はあったけど)。ここ数年でLGBTという言葉とともに同性愛者の存在は日本で広く認知され、良くも悪くもドラマで描かれる機会も増えた。広がる過程でさまざまな議論が巻き起こっているから、そういうものに触れている人はみんな、何らかのかたちで受け止めてくれる。そして「私は知らない」という立場から、手探りに、注意深く質問をしてくれる。そこから理解が広がる場合も多い。

一方で、ゲイであると伝えると「誰かを愛するってところは同じだもんね」と言われることがある。平然とであったり、やけに情緒的であったり、そのニュアンスは人それぞれなのだけど、どちらにしても彼らは僕を差別しない。「同じ」だからだ。
そんな風に共通点を見出して、自分なりの方法で気持ちを示してくれることは、とてもありがたい。でも、その時いつも、少しだけ違和感を覚える。僕たちは本当に「同じ」なのだろうか。その「同じ」は、一見すると両者を並列に扱って見えるけれど、マジョリティの中にマイノリティを取り込んで再生産しているだけにも見える。彼らの発言は間違いではないし、その気持ちは尊重したい。でも、全面的に同意することで、何かを覆い隠してしまうことになるのではないかとも思う。

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岸政彦『はじめての沖縄』(新曜社)

岸政彦さんの『はじめての沖縄』を読んだ。
岸さんは学生の頃に観光客として沖縄を訪れ、その独自の風土と文化に魅了され、社会学者になってからは沖縄を研究対象に選び、25年にわたって研究し続けた。
第二次世界大戦で国内ほぼ唯一の大規模な地上戦が行われた場所として、もともと琉球王国として独立していたが、日本とアメリカによって翻弄されてきた国として、青い海と輝く太陽、独自の文化を持つ観光資源に恵まれた島々として。ここで語られる沖縄は、そのどれでもなく、またそのすべてを背負っている。複雑に絡み合った歴史を、教科書のように整理するのではなく、個人史の聞き取りやタクシー運転手、米兵たちとの会話から考えていく。

この中で岸さんは、自分が沖縄の人ではない本土の人間、<ナイチャー>であることを繰り返し強調している。そこには、沖縄と日本が本来は別々の国だったが、日本側の一方的な思惑によって統合されたり、犠牲になったりしてきたという過去があり、つまりその関係性が非対称なものだという認識がある。そこには、はっきりとした境界線がある。このことに関して、岸さんは本の序章「沖縄について考えることについて考える」で、こう書いている。

”ここ何十年かの、社会学や哲学や、現代思想と呼ばれる領域では、どちらかといえば、人びとのあいだにあまり線をはっきりと引かないこと、そういう境界線を飛び越えたり、行ったり来たり、あるいは解体したり台無しにしてしまったりするような、個人の多様性や流動性や複雑性を強調することが多かったように思う。しかし私はあえて、ここではその境界線の「こちら側」にはっきりと立ち、境界線の向こう側を眺め、境界線とともに立ち、境界線について考えたいと思う”

境界線は僕たちを分断し、差別的な構造を生み出すものだ。だから差別をなくそうと思えば、その境界線を越えていくような物語を描くことが手っ取り早い。分断されていた者たちが、壁を飛び越え、一つになる。それは、時にはとても感動的で、平和な未来を予感させるだろう。「ゲイもストレートも、誰かを愛するのは同じ」と語った人たちも、そんな世界を思い描いていたのかもしれない。
でも、岸さんはこの本で、”この境界線を軽々しく飛び越えたくない”と書く。

岸さんが2015年に発表した『断片的なものの社会学』(朝日出版社)という本がある。
それまで、社会学がビッグデータ的な、枝葉を刈って世界のおおまかな傾向を提示するものとして世間に認識されていたのに対して(この感覚については雨宮まみさんとの対談『愛と欲望の雑談』(ミシマ社)の冒頭でも触れられていて、わかるという人も多いのではないかと思う)、この本ではむしろその枝葉の部分を拾い集めている。
生活史を聞き取る中で出会った、社会学的には意味を持たない語り。それらは分析できないが、確かにこの世界を形作っているものだ。岸さんはその断片的なものの美しさに吸い寄せられるようにして、世界に等しく流れる膨大な時間に思いをはせる。個人史的な文章を書いている人はきっとはじめて読んだ時に衝撃を受けたと思うし、自分自身もこんな風に世界を考えていくことができるんだと思って、何度も繰り返し読んだ。

断片的なことがらを、断片的なまま言葉にするのは、個人が個人であることや、体験の一回性を、やすやすと越境したり、同化したりしないということだ。それは、”境界線を軽々しく飛び越えたくない”という、本書のスタンスとも重なる。
岸さんは、沖縄に対して境界線の向こうから考える。それはつまり、どれだけの知識を得ても「私は知らない」と感じ続けることであり、その当事者性を共有できないということだ。当事者になれないばかりでなく、沖縄と日本という分類では、抑圧している加害者にもなる、ということでもある。

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『すばる』5月号 僕とフェミニズム(集英社)

同じような構造に関する言及を、最近ほかの場所でも読んだ。30人近い男性たちがフェミニズムについて語った雑誌『すばる』の2018年5月号「ぼくとフェミニズム」だ。

この特集は、内容が滑らかなグラデーションで繋がるように編まれていることの多い文芸誌の中で、カテゴリ別に分類され、その中でもっとも多い17名が寄稿したエッセイは五十音順という無機質な構成になっている。さらに「フェミニズム」という語を女性のためだけのものとして捉えている人と、マイノリティ全般をエンパワメントするものとして捉えている人が入り乱れていて、少し混乱する。ただし、読み進めているとそもそもフェミニズムという言葉の定義の揺れは現代社会の状況をそのまま反映しているもので、五十音で並べているのも連帯を回避するためだとわかってくる。これは「ぼくたちとフェミニズム」ではないのだ。そして「ぼくのフェミニズム」でもない。そこには社会的に男性である以上、加害者でもある、というはっきりとした境界線がある。
この構造に触れていたのは、軽やかに自分はフェミニストだと宣言したいとうせいこうさん、”すると大切なのは、異他なる存在としての女性や性的マイノリティの眼差しに貫かれながら、男性が男性を問い直していくことではないか”と書いた杉田俊介さん、社会の構図の中で定着した女性の扱われ方を検分し、そこには構図を甘受する男性がいて、男性が問いかけなくてはいけないとする武田砂鉄さんなどだ。こうした文章を読んで、僕自身とフェミニズムのあり方も見えたような気がする。ゲイは広義ではフェミニズムと連携できるけれど、身体的・社会的に男性である以上、女性と同じように被害や偏見にあうことはない。たとえば武田砂鉄さんの評論で、政府がJアラートを発令するとNHK『おはよう日本』で和久田麻由子キャスターが画面からいなくなり、有事の際には男だらけになるという例が挙げられていて、このような立場にゲイがいた場合、少なくともカミングアウトしていなければ「男性」としてそのような扱いを受けることはないだろう。夜道を一人で歩く怖さも、自分は知らない。

ある点では当事者であり、ある点では内省すべき加害者なのだ。そしてそこから宣言し、行動し、加害者になる可能性を極力排除したとしても、完全に別の誰かを理解できるわけではない。僕たちは「同じ」ではない。

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僕たちは、立場を本当には共有できない。それは断絶だが、一人一人がかけがえのない存在であり、それぞれの当事者性があることを示す。
自分の当事者性はどこにあるのか。それを美しい「同じ」に惑わされず見定めたい。そして、自分が加害者になる可能性があるのを忘れずにいたい。境界線はある。だけど、その意味を変えていくことはできるはずだ。