まるで泥みたい

長期滞在者

コーヒーが好きだ。
といって、抽出から保温までやってくれるコーヒーメーカーを持っているわけでもないし、カフェ巡りを趣味にしているわけでもない。スマトラとエチオピアの違いを言うこともできないし、まあぼちぼちやっている、といったところ。

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いつ頃から好きになったのだろうかと考えると、大学で卒業研究をしていた頃に行きつく。その研究室には、インスタントの粉を溶かすタイプのコーヒーが常備されていた。夕方17時頃、なんとなく外が暗くなってきて、今日一日の最後の仕事の前にひと息つくか…といった時間帯に、先生や先輩がそれぞれのマグカップにインスタントの粉末をサラサラと傾け、電気ポットからこぽこぽとお湯を注いで飲んでいた。私もそれを見て、人生で初めて、コーヒーを常飲するようになった。

大学院に進んでからは、インスタントではなく豆から淹れるコーヒーの味を知った。若い世代がたくさん在籍する研究室で、お茶部屋になんとなくみんなで集まって、お昼を食べるのが恒例になっていた。おかずは近所の弁当屋さんから注文し、お米だけは、両手で抱えるほど大きな炊飯器で、毎日嘘みたいにたくさんの量を炊いていた。

大学院のときのその研究室では、昼食後、コーヒーにこだわる助教の先生がミルを手に取り、豆をがりがりやりだす。人びとはおごそかにその手元を眺め、コーヒーメーカーがこぽこぽ・さーと立てる小気味いい音に耳を傾け、だんだん漂ってくる良い匂いにわくわくしながら、お昼の後の短いおしゃべりを楽しむのだった。たっぷり淹れられたコーヒーはみなに分配され、たしか、コーヒー愛飲者はコーヒー基金に定期的に入金する決まりになっていた。私もたまにそのコーヒーを口にし、世の中にはこんなに魅力的な飲み物があったのか…とうっとりしていた。

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コーヒーの何が好きなのかというと、味や風味はもちろんのこと、コーヒーというものが持つ雰囲気みたいなものにも惹かれているように思う。

とはいえまず、あのこうばしい香りや苦さが良い。わたしは甘い飲み物が苦手で、かといってお茶は水の延長線上にあるような気がしてしまって、飲みたい気分になることはそこまで多くない。でも、コーヒーだけはなんだか別で、お仕事の合間や、忙しく立ち働いた後のほっとしたいときなんかに、決まって飲みたくなってくる。そんなときには、カップ1杯のコーヒーで幸せを満喫できる。

余裕があるときには豆を挽いて、忙しいときにはドリップで、数分後には忘れてしまいそうなことを考えるともなく頭に思い浮かべながら、何度かに分けてそぽそぽお湯を注ぐ。電気ポットも楽だけれど、そのためにお湯を沸かすのも苦にはならない。茶色い粉がふわっと膨らんで、湯気がたって、水面が細かな気泡でおおわれると、見た目はまるで泥みたいだけれど、なんとも良い香りがしてくる。この香りだけ嗅いで1日を終えられたらなんて幸せだろうか、などといったことを思ったりもする。コーヒーを淹れるという動作が、生活におだやかさを取り戻す儀式のようになっている。

夏には、濃く淹れたものに氷をたっぷり入れて、冬にはマグカップをしっかり温めて。ふぅと腰をおろして、鼻を近づけて香りを嗅ぎ、タンブラーの底に黒い液体がたぷんとしてるのを見ると、むしょうにうれしくなってくる。

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ところが、わたしはカフェインに弱い体質らしかった。そのことに気づいたのは数年前。コーヒーを飲むと手が震えて、動悸がするように思う。ちょっと調べてみると、これはカフェイン中毒の症状らしい。それでは、ものは試しとコーヒーやお茶を断ってみると、なんと睡眠時間が1-2時間長くなった。それまでは、なんとなく覚醒しているような気持ちの悪い眠りで、眠っていたくても朝になると目が覚めてしまっていた。それが、コーヒーを断つと、眠りの深みにすーっと降りていって、朝までずっと、まるでとっぷり沼に浸っている泥にでもなったみたいな、心地の良い睡眠が得られるようになった。日中居眠りをすることもなくなった。

眠りが浅いとパフォーマンスが落ちるし、コーヒーを飲む一瞬の喜びと、長く深い睡眠という至福を比べて、結局後者に重きを置いたわたしは、泣く泣くコーヒーを断った。それ以降1-2年間はコーヒーなしの生活がつづいたのだった。(そのかわりにハーブティーに詳しくなった)。

最近はうれしいことに、カフェインレスのおいしいコーヒーも増えている。最初は偏見があって、カフェインレスのコーヒーなんて、コーヒーではないんじゃなかろうか、なんて考えていた。しかし、あるとき口にする機会があり、案外おいしい、というか普通のコーヒーとまったく変わりないことに気がついた。それ以降はいろいろなカフェインレスコーヒーを試し、お気に入りもみつけることができたのだった。

でも、カフェインに弱いと、本格的なコーヒーショップでは、葛藤することになる。カウンターの向うからただよってくる良い香りを嗅ぎながら、メニューに載った個性的なコーヒーの数々を眺める。カフェインレスのものはないらしい。カフェインを摂ると、眠りが浅くなって、夜中ずっと半分だけ目が覚めているような気持ちの悪い睡眠がやってくる。この1杯のコーヒーに、すこやかな眠りを犠牲にするだけの価値があるだろうか。慎重に選ばなければならない……。カフェインに弱いと、却ってコーヒーにこだわりが生じてくる、という逆説なのであった。

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