家族って一体なんなのだろう

長期滞在者

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家族がばらばらになったのは、去年の2月のことだった。
僕が幼い頃は主に父の酒癖の悪さが原因でよく家族喧嘩になっていたけれど、今回の事の発端は父ではなかった。父が年齢を重ね、あの赤ら顔と怒声が昔話になりかけた頃、こんなことが起きるとは。いくつかの問題が連動しながらめまぐるしく進行して、あっという間に縁を切る、なんて言葉が飛び交うようになっていた。

仮に相関図を書いてみるとする。それでいうと僕は誰にも矢印が伸びていない、中立のような立場にいた。全員の話を聞けるのは僕しかいない。会ったりLINEをしたりしていると、今起きていることがすべてではなくて、憎しみや恩、違和感や理想が複雑に混ざり合った感情をずっとくすぶらせていたのが、ここにきて爆発してしまったように思えた。誰が悪い、で解決する次元をとうに超えている。
あまり喧嘩をしない母子やきょうだいだった。お互いに遠慮をしていた歪みが、取り返しのつかないくらい大きくなっていたのかもしれない。

いざ壊れてみると、自分の中に「家族は離れていてもどこか重なり合っているもの」というオーソドックスな価値観が息づいていたことに気付かされる。それは、幼いころに父の暴力で何度も何度も壊れそうになりながらも、結果として家族のかたちを保っていた経験から培われたものだった。それが、折れてしまった。
家族って一体なんなのだろう。そのことを、振り出しに戻って考えなければならなかった。

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植本一子さんの本を読んだのは、その頃のことだった。近所の本屋でずいぶん長いこと平置きされていた『かなわない』は、まばゆいとさえ感じるトーストの絵と巨大な諦念を感じるタイトルが妙に調和していて、簡単に手を出してはいけない気がした。読まないまま家に置いておくのがなぜか憚られて、今読んでいる本を読み終えてから買ったことを覚えている。
買ってからは一気に読んでしまった。2011年の震災後から2014年までの日記が、間にエッセイを挟みながら綴られる。放射能への不安やめまぐるしい子育てについて書かれていた日記は、歳月を経るにつれうまくできない自分への苛立ちや母への複雑な感情、夫への憎悪、そして家庭の外にできた恋人をめぐる話へとうつろっていく。

植本さんの文章は自分の感情に正直で、嘘や誤魔化しをしていてもすぐに気づいてしまう。正直というより鋭敏なのかもしれない。「自分に正直」という言葉を悪用していくらでも自分を正当化する人もいるけれど、植本さんにはそういうところが一切ない。だから読んでいてえっ、と思うような箇所があっても、つぶさに綴られた実感がそれを飛び越えてくる。うまく言えないのだけど、魂は自由だ、と思う。その自由さを、植本さんはあとがきの中で「飛行機から見下ろす、新幹線の車窓から眺める、家から溢れる光の中にある、ただそこにあった私の物語にすぎない」という言葉で書き留めている。ただそこにあるものを否定せず、濁らせず、受容すること。
この頃は人におすすめの本を聞かれたら迷わず『かなわない』を挙げていた。そのくらい、自分の中に強く残る一冊になった。

そして今年の2月に発売されたのが、『かなわない』の続きの生活を綴った『家族最後の日』だった。子育てと恋人が大きな柱になっていた前著に対し、本書のテーマは「家族」。3部構成になっていて、最初は3年ぶりに実家に帰った日に起きた、母親との絶縁。20ページにも満たない話だが、『かなわない』を読んでいると、それが一朝一夕で起きたわけではないことがわかる。そうなのだ。きっかけは小さなことのようでも、そこに至るまでには膨大な積み重ねがある。
次が、カメラマンを目指していた義弟の自殺。そりの合わない父親との共同生活やうだつのあがらない日々の末路と、遺された人たちの思惟が綴られる。
最後が癌になった夫の話で、一番紙幅を割いている。日記態になっていることもあり、他の2編に比べて細部がとてもこまやかだ。夫の病気についてだけではなく、色々なことが綴られる。毎日の送り迎えや夏休みの自由研究、運動会といった子ども達の行事や、仕事のこと、入院にまつわる事務的なあれこれが否応なしに生活を前に進めて、歩きながら考える、といった感じの文章。それがとてもリアルだった。巨大な岩のような悲しさにひたすら向き合うだけの日々などそう送れるものではなく、日々の中で持ち直したり、ふとした瞬間にこぼれたりして暮らしは続く。

”ふと雑踏の中で、この悲しみは、私にしかわからないんだ、と当たり前のことを思い絶望した。誰にもわかってもらえないものを、私は抱えてしまったのだ。それはどこに捨てることも渡すこともできない。そう思うと、急に恐ろしくなった。「今度こそ一人で立ちなさい」と誰かに言われているような気がした”

”苦しみをぶつけられる相手がいないこんなとき、ふと思い出したのはやはりお母さんだった。お母さんに泣きついてしまいそうな自分がいた。お母さんにしかぶつけられない類の辛さのような気がした。そう考えると、家族というのはなんなのだろう。家族だからとすべてをぶつけても、受け入れられるとは限らないのに”

夫の病気に向き合う中で、母親についても思いがめぐる。自分の悲しみや苦しみを受け入れてくれる存在としての家族と、受け入れられるとは限らないという実感。でも、それについての答えは出ない。植本さんは答えを見つけようとはせず、ただひたすら考え続けている。その姿勢こそが答えなのかもしれないと思うほどに。

この本は、夫の抗がん剤治療がはじまったその日の光景で終わる。それはできごとの展開としては中途半端にも思える。でも、その終わり方がとても好きだ。書かれていない明日が続いているのがはっきりとわかるから。そして「日常は続く」ことはこんな風に浮沈する未来が待っているということで、それはうっすらとした明かりかもしれないけれど、希望なのだと思う。

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植本一子『家族最後の日』(太田出版)

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植本さんの文章を読んで、そこにあるものと同じ問いを自分の姉や、親や、恋人のことを思い浮かべながら考えてみる。

家族って一体なんなのだろう。僕自身、その答えはまだ見つけられずにいる。見つかったとして、当然それは植本さんの家族とも違えば、他の家族とも違うし、母や姉たちとも違うのだろう。一回きりの、一つしかない関係を、それぞれ紡いで生きている。
絶縁問題が解決しないまま、春には父が体調を崩し、あっという間に亡くなってしまった。答えを出せないまま状況が何度も大きく動いて、なかなか整理がつかない。そうしている間にも慌ただしく毎日は過ぎて、思い出すことさえしない日もよくある。でも、ふとした瞬間に思い出しては考える。日常は続く。続けていくしかない。そうすることでしか、どこへもたどり着けない。