ともに戦っている

長期滞在者

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上原隆『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)

仕事でなんとなく不調が続き、恋人を怒らせ、打ち合わせで雑に扱われる。みじめな気持ちになることが続いたその日の夜は、進まない原稿を放り出し、気になっていた本を読むことに決めた。
読んだのは、上原隆の『友がみな我よりえらく見える日は』。タイトルは石川啄木の句からの引用だけれど、誰しも一度や二度はそういう気分になったことがあるだろう。常にそう感じている人もいるかもしれない。

この本は上原さんが様々な人に会い、その生活を取材しながら記録したノンフィクションだ。登場するのは、それぞれ一般的に「不幸」と思われるような属性を背負った市井の人たち。酔っ払ってベランダから落ち、両目の視力を失った市役所職員。ホームレス、登校拒否、父子家庭…。何かを背負った人たちの話という点では、社会学者・岸政彦さんの『街の人生』を思い出す。これも、外国籍のゲイやホームレスの人たちの語りで構成された一冊だった。
共通しているのは、社会的な属性を単純化せず、個人的な話として尊重していること。違うのは、その描き方。『街の人生』はできる限り肉声の語りに近づくため、テープの書き起こしをほぼそのまま収録しているが、『友がみな我よりえらく見える日は』は上原さんの視点で編集され、物語化されている。ただし、その編集に過剰さはない。悲惨さにフォーカスすることもないし、感動を掻き立てようともしていない。その姿勢は、上原さんが彼らの「普通の1日」に密着していることからも感じられる。どうして今こういった生活をしているのか、何があなたを悩ませているのか。そのことに触れながらも、基本的には取材をしたその日に見たこと、聞いたことを描くことに終始している。取材者の家や職場に足を運び、食事をしたりする時間を大切にすることで、それぞれの社会的な属性が静かな生活の中に溶けていく。

本の紹介には、「人はどうやって自尊心を取り戻すのか」を記録したノンフィクションだと書かれていた。しかし、必ずしもわかりやすくその過程や、ビフォー・アフターが描かれているわけではない。淡々とした書きぶりはどちらかというと、みな日々の中で自分の誇りをどうやって支えて生きているのか、という内容に近いように思う。

自信を失うことは、貯金を切り崩すこととか、いくら水をやっても枯れていくばかりの植物を見ることに似ている。これからは下っていくばかりだ、という感覚が、自信がないということなのではないか。だとすると、それは何か劇的なできごとでたちまち克服できるものではない。すごく嬉しいことがあっても、それは一時的なもので、日々少しずつ、プラスの何かを培うことでしか、根本的には維持できないものなのだと思う。

だからこそ、上原さんは彼らの生活に密着したのだろうか。余計な脚色をしないこの本だけれど、一つだけ徹底していることがある。それは、どの物語も必ず明るい瞬間で終わるように描かれていることだ。ドラマチックな物語ではなく、ごく普通の1日をそうして受容することが、自信を失うことに歯止めをかけるのかもしれない。

”容貌”という、自分の外見を美しくないと思っている女性の話がある。彼女はもう長い間男性との関わりを持たず、一人で暮らしている。その彼女は45歳の時、自分のヌードフォトを撮ることを思いつく。知り合いに「自分の部屋を撮りたいから」とカメラマンを紹介してもらい、その人に部屋ではなく自分を撮ってほしいと打ち明ける。一週間後、できあがった10枚の写真を見て、彼女はそれを美しいと思った。「顔は写さなくていい」と言ったけれど、できあがった写真にはしっかり顔も写っていて、”表情もいい”と彼女は思った。以来、仕事場などでふと思い出し、幸せな気分に浸るという。

裸を写した写真だから、その人が語った言葉だから、真実だというわけではない。だからここに綴られた物語は多分、彼らの人生そのものではない。でも、その美しい模写にはその人でなくてはならない必然があって、そこには現実を変容させうる力が宿っている。

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この本が単行本として初めて世に出たのは1996年のことだ。今が2017年だから、20年以上が経ったことになる。だから出てくる描写がところどころちょっと古いのだけど、登場した人たちの悲しみは時代を経ても色褪せることなく記録されている。
では、彼らは今、どんな風に生きているのだろう。自分の20年前というと本当に何も知らない子どもで、まともに覚えてもいないから、それだけの月日を重ねること自体、うまく想像できない。

人はいつも、自分の問題は自分にしか解決できない。僕は長い歳月を隔てて、本を介して彼らの人生を知っただけに過ぎず、それに干渉することはできない。この本にでてきた人たちだけではなくて、恋人や家族、友人にしても、本当はそうなのだろう。だけど、ともに戦っている、と思う。

”友人が本物の不幸におちいった時、私は友人になにもしてあげられないことに驚き、とまどった。私にできることといったら、友人が自力で不幸を克服するのを見ていることくらいだった”(「友よ」より)

本のはじめに収録された「友よ」の冒頭で、上原さんはこう書いている。上原さんが病院へ友人を見舞いに行く話。友人はアパートの5階から落ちて、1ヶ月半の意識不明のあと、両目の視力を失って生還した。

悩んでいる親しい人に対して、できることはあるけれど、最後に走るのは、生きるのは、自分じゃない。逆もそうで、僕個人の問題を誰かに解決してもらうことはできない。問題の重さも、気持ちの強さも、姿勢のまじめさも違うけれど、そうやってそれぞれが向き合っている。人はひとりだということと、ともに戦っている人がいること、その二つを知る。
ともに戦うすべての人が、苦しみから逃げ切れることを祈る。