最後の記事はなるべく、即興演奏のような
ふと思い浮かんだことをそのまま並べていきながら、
それに合うような挿写?を入れていきたいと思う。
これはたとえば自分にまつわる大事なスピーチなんかの時はよくとる方法で、
前の日から練った文章も良いのかもしれないけど、それよりももっと今形成されているその時の細胞が
発するもの、声、息遣い、間のリズムが作る真っ白な言葉の方が人間味があって意味がある気がするからだ。
かんだっていい。どもったっていい。それも人格が作り出す言葉でその「間」もひとつのコトバ。
僕をよく知る人はtwitterなどで「ああ、またか。」とあきれられるくらい、
よくタイプミスをする。
でも、そこが人間くさくしていいとタイプミスしたときはだいたいそのツイートがお気にいりされる。。。
もちろん、もの書きのプロなら許されないことなんだろうけど、
そこはこのアパートメント。
お誘いしてくれたりょうたくんやかおりさんもきっとそんな背伸びした文章は期待してないだろう。(たぶん)
今日で最後のアパートメントの記事。
実はいつも締め切りギリギリに何度もUPしてから、あぁ、また誤字脱字が。。。
と何度かりょうたくんに修正のメールを入れたこともある。
(アパートメントには一度UPすると書き手側で修正できないという鉄の掟があるのです。)
今日は真っ白なコトバを残すため、あえて読み直さず、あえてあまり構成も考えないで書こうと思う。
なので読み苦しいところがあったらほんとにごめんなさい。
・神様とロボット
とあるお店でのこと。
2つの商品を持ってレジへ。
「いらっしゃいませ。こちらの商品、お会計は分けられますか?」
お願いしますと言うと
「○○○円になります。ポイントカードはお持ちですか?」
ないです。と応えて次のお会計に移る。
ふたたび
「いらっしゃいませ。」とおじぎをされた。
そして、ふたたび
「○○○円になります。ポイントカードはお持ちですか?」
ないです。と応えてお会計を終えた。
「お客様は神様です。」
三波春夫さんはもともとのコトバの真意とは違う意味で使われていると
サイトでおっしゃってましたが、
コトバが別のかたちでうまく利用される中、
お客様は人から神様に、店員もまた人からロボットのようだと思った。
お客様は人です。生身の人。
なんて言ったら、気分を悪くする人もいるのかもしれないけど、
これは僕の接客の信念です。
人だから聖典には書いてない自分の考えで喜ばせたい。
人だから失敗や間違いを犯した時は天罰じゃなくて面と向かって怒られたい。
人だから、意気投合したら飲みにでもいきたいじゃないか。
・まどろみの中の確かな意識
人の写真をよく撮るけど、その中でも目を閉じている写真がけっこう多い。
良いポートレートはその人と向き合い距離を縮めることなんて話を良く聞くけど、
僕はその距離が様々だから様々な写真が撮れると思う。
近すぎて撮れない写真もあれば、遠いから撮れる写真もある。
じゃあ、この撮る方と撮られる方が向き合っていないこの写真たちは距離間があるから撮れるかというとそうでもない。
なかにはほんとに一瞬寝てしまった写真もあったりするのだけど、
これは距離がある程度近いがゆえに緊張から解き放たれた瞬間であり、
カメラを意識しなくなった瞬間でもある。
僕は寝顔の写真を通して、その人の見てる夢を撮りたいと思う時がある。
・アブノーマルという名のノーマル
小さい頃から変わってる子だとよく言われてきたし、
その時は他人と違うことがなんだか病的に思えたりしたけど、
大人になるにつれてそれは自分だけが持ってるチャンスだと思えてくる。
逆にすべての共感に僕は不安になる。
ないものについて人が想像できる範囲はかぎられている。
宇宙から侵略にやってきた宇宙人が出てくる映画が人に似てたり、タコに似てたり
なにかのモチーフが元にあるように、人間の脳は見たこと・聞いたことから
組み合わせを想像することしかできない。
正常位だけのセックスははたして正常なのか。
シンプルに愛する行為をつきつめたかたちがそうであればそれもありだと思う。
でも、生物界においての正常位はもはや異常なんだと思うし、
騎乗位が二人の愛のかたちならそれはもう正常位なんだと思う。
なにが言いたいかというと人が言うアブノーマルな事象は
人間の想像力を越えるほどではなく、それが誰にも認知されればノーマルにもなりうるということ。
・巨大スピーカーのこと
アトリエの近くには靭公園という、春は花見でにぎわい、初夏にはバラ園が美しい公園がある。
この時期は噴水が子供たちのプールに代わり、たくさんのワンコ同士やその主人同士の会話であふれている。
(以前にはイグアナを散歩させている人もいたっけ。)
そして、この時期には毎年ものすごい数のセミの大合唱がはじまる。
一歩木々の生い茂る公園のはずれに足を踏み入れる。
耳をつんざくようなセミの鳴き声。
おびただしい数のセミがその木々にとまっているのだろうなと
恐る恐る顔をあげる。
だけど、不思議なことに一匹もセミが見当たらない。
ずっとずっと高いところを見ても、すぐに空につきあたる。
なんだか夏音を流す巨大スピーカーがあってだまされてるんじゃないかと思った。
そもそも実体として僕はここにほんとに存在しているのだろうか。
産まれたときから世界中にドラマとして放映されていて自分だけが知らないトゥルーマンショーとか
ハンバートハンバートの「蝙蝠傘」という曲でいつのまにか自分そっくりの影に体をのっとられる話を思い出した。
そんなとき僕は歌うエッフェル塔に座りたくなる。
・歌うエッフェル塔
SINGERのミシンチェア。
その重厚な黒い鉄のかたまりを見るといつもエッフェル塔を思い出す。
「生成りとトゲ」のようなプロジェクトがはじまった日は
実は共に立ち上げたsanpeiさんとエッフェル塔の下で待ち合わせた1月4日。
フランス革命から100周年を記念して開催された万博博覧会に合わせて建てられたものらしいが、
当時、その外観は賛否両論に分かれたという。
新しいことがはじまるときはいつもそうだ。
日常に浸透するまで戦い続けなければならない。
新しいことに挑戦する時、「無理でしょう。」なんて声があがるときがある。
でも、そういう時、逆にうれしくなる。
ああ、無理かもしれないことがカタチになるかもしれないんだって。
カタカタカタカタカタカタ
僕はよく誰もいないアトリエの休日にミシンを踏む。
その音は微妙なコンディションの差でいつも違う。
その音を一音一音聴くために音楽を消す。
そこに小鳥のさえずりや誰かが歩く音なんかが重なって生活の音になる。
それまで、どこにもつながらなかった場所に糸の道ができ、
再びその糸が重なったとき1つの世界になる。
カタカタカタカタカタカタン
一定のリズムがほんの少しずれを生じた時少し不安になる。
それは心臓の鼓動を聞いているよう。
たまに家猫アッシュをぎゅっと抱きしめて胸に耳を当てる。
その心音にほっとしたあと、早すぎる鼓動に不安になる。
この安心と不安こそが生きているということ。
何のためにつくる?
「服とかアクセとかなんだっていい。だってなくても生きていけるもん。」
以前に知人が言ったコトバ。
生きるために生きるだけ?
紀元前3000年以上前から存在した装飾品ははたして生きるためだけに産まれたのだろうか。
震災から1カ月のこと。
被災地の方からカメラ小物のオーダーがあった。
「こんなときだけどね、こんなときだからこそ写真を撮りたいって思ったんです。」
僕はこれからも、なくても生きていけるものを作り続ける。
ちゃんと生きるために。
最後に、このアパートメントのお話をいただいたりょうたくん、かおりさん、ありがとう。
思えばtoshiさんのギャラリーでばったり出会って、
「もうすぐ写真展やるんです。」って聞いて、じゃあまたそんとき来ますって
東京と大阪の距離なんてそんときは気にしなかった。
それからヌカガさんの写真展で大阪に二人が来たときにはもうこの話が決まっていた。
1つ目のコラムの出会いもそうだけど、大事な出会いはいつも弾丸でそこにはたいして時間なんかいらない。
そういう直感は間違ったことはない。
今日でこのアパートメントを出て、また違う旅に出る。
ルームナンバー000での2カ月間。
最初は曲がりくねって見えたこのアパーメントは
他の住人の方と仲良くなったりと今では○○荘みたいななんだか
すごく近くてすごく昔からあるようなそんな場所になった。
ちょっとここを出るのがさみしいけど、また遊びにきます。
2カ月お付き合いいただき、本当にありがとうございました。