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2F/当番ノート

カマドウマ

当番ノート 第7期

十一、二歳のころ、一年にも満たない期間だが、父方の祖父母の家で暮らしていたことがある。
田舎の小さな町で、家の便所は今では珍しくなってしまったであろう非水洗式である。そういう田舎の常として、便所は母屋から少し離れた外にあり、山間の町なので冬の夜の寒さも半端じゃなく、心細さと寒さで便所といえばことこと震えていた記憶ばかりが残る。
寒い季節でなくとも、便所にはもっと心震わせるものがいた。
田舎の便所に出るもの、といえばカマドウマである。漢字を当てるなら竃馬。別名、便所コオロギ。
見たことのない人もいるだろうか。羽のないバッタを想像していただきたい。背は丸く、硬いんだか柔らかいんだか一見わからない外装に、強靭な後足を持っている。で、なによりインパクトのあるのが、羽がないためデザイン上の起伏に乏しい体躯にいきなり出現する黒い目である。
こいつが、薄暗い(照明は裸電球ひとつだった)非水洗式便所の寒い床にしばしば出現するのである。便所コオロギとはいうものの、コオロギよりも二周り以上は大きく、薄暗い便所で見るその黒い眼はまさに冥界の使者的な虚無を湛えている。

恐怖であった。本当にこの虫が恐ろしかった。
「恐怖」という題で絵を描けといわれれば速攻でカマドウマを書いただろう。僕の中にある辞書の「恐怖」の項には、それまで別の挿絵があったかもしれないが、やつに出会って以来、完全にカマドウマの姿に差し替わった。
僕は他の昆虫に関しては、虻や蜂だろうがゴキブリだろうが、あまり怖いなどとは思わないたちである。小学生の頃からそうだった。虫に対する恐怖心というのはほとんどない。
なのに、このカマドウマにだけは心底の恐怖を感じた。
事情があって親元を離れていたという当時の不安定な心理状況のせいもあったかもしれない。見たときの状況とかタイミングとか、いろいろな要素が絡まってのことだろうとは思う。理屈云々ではない恐怖を、この虫に抱くようになっていた。
大人になってからも「こわいもの=カマドウマ」という強固なリンクが切れなかった。薄暗い便所の床に静かに佇む羽のない黒い目の魔物が、僕の心の深部にトコトコと歩いてきて居座り、出て行ってくれなかった。

・・・・・・

二十数年が経ち、カマドウマが怖い少年も、三十代半ばのオッサンになっていた。
ある天気のよい日に、職場の階段を上がっていたら、明るく窓光の差す階段の踊り場に、なぜかそいつがいた。
目の黒い、羽のない、強靭な後足を持つ・・・美しい虫が。

最初、カマドウマだとわからなかった。つまみあげて、手のひらに乗せ、しげしげと見た。
子供の頃から二十数年間「恐怖」の代名詞であった悪魔のような虫と、同じ形をした美しい虫が手のひらの上にあった。なんだか呆気にとられて、おそらく馬鹿みたいな顔で、僕は踊り場に佇んでいたはずである。
そのまま階段を上がって自分のデスクにあったビンの中にカマドウマを入れ、ライトボックスの電源を入れてその上にカマドウマのビンを置き、横に転がっていたカメラでカシャリ、カシャリと撮った。
なんだかよくわからないが、これはどうしても撮っておかなければならないのだ、と思った。カマドウマが怖くない自分、というものが逆に心許なくて、不安定で、こめかみがざわざわした。
撮り終わって、職場の隣にある神社の境内にカマドウマを逃がし、深く深呼吸をした。ああ、と声が出た。

恐怖というものは、おそらく人間のあまたの感情のうち、かなり心の深層部に位置するもので、いうならば人格的なものを奥から底支えしているようなものだ、と思い込んでいた。なかなか自分で意識的にコントロールがしにくいものなのだ、と。怖いったら怖いのだ、と。理屈じゃない深さにそれはあるのだ、と。
その、二十数年思い込んでいたことが、あの階段の明るい踊り場にいた一匹のカマドウマによって消し飛んだ。恐怖はあっけなく恐怖でなくなった。
言葉で書くと簡単なことに思えるかもしれないが、そのとき僕の呆けた顔の下で、きっと心の重層が根底からひっくり返るような変動が進行していたはずである。奥底に圧されていたものが、へたり、と崩れて霧散した。ああ、僕の中で何かが組替わる・・・その瞬間を自覚する、というのは、どうにも心許なく寄る辺ない、奇妙な感覚である。
あのとき「撮らなきゃ」と思ったのは、その心許なさから、岸にロープを投げるような無意識の思いだったのかもしれない、などと後から理屈をつけてみるが、まぁ、本当のところはわからない。ただ、その変動のさなかにいることを感じて、とにかく記録しなければいけない、と思ったのだと思う。

写真というのは、わけのわからない現前の状況に対して、とりあえずのピンを打つ、という効能がある。カマドウマの写真を撮りながら、僕は自分の内側の層状の何か、が、次々入れ替わって行く様を、カシャリ、カシャリとピンを打つように写していたのだと思う。

・・・・・・

こんにちは。
今月から二ヶ月間お世話になります。関西で写真を撮っているカマウチと申します。当番ノート、水曜日担当です。よろしくお願いいたします。

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