「姉さん、もう一度あのお話を聞かせてくれない?」
顔も体もふっくらとした妹が、痩せぎすの姉にねだった。
「あんた、また聞きたいの?小さい頃から何十回もしてきた話じゃない」
呆れた様子で姉が応える。
「いいの。何回聞いても、姉さんのあのお話はおもしろいわ。恐いところもあるけれど、すごく惹かれるの。ね、お願い」
「確かに、あの話は恐いだけじゃないものね。仕方がないねえ、それじゃあ話すわよ」
これはいつの時代のものでもなく、同時にいつの時代のものでもあるという、とても不思議なお話です。
あるところに、幸福という名の獣がいました。燃えあがる炎のような、赤色から黄色へ、黄色から青色へと不定期に変わる体と長いしっぽを持ち、顔だけが森のような深い緑におおわれている、そんな大そう美しい獣でした。その獣はいつでもどこでも飛び跳ね、笑い、太陽や月やその他の星ぼしと踊り、動物や植物たちと歌っていました。幸福は自然のものも人からもらったものも何でも食べ、その乳を人びとに搾らせました。また、人びとが望むときは彼らのなかに溶けこみ、豊かな毛と体を震わせて音楽を奏でるのでした。
幸福という名の獣にはすばらしい女主人がいました。彼女は幸福を果てしなく大きな庭に放し、時々一緒に遊ぶくらいで、命令せず、独占せず、決して支配しようとはしませんでした。だから、幸福は自由で無償で、誰とでも分けへだてなく、仲良くやっていたのです。
しかし、そのようにして暮らす幸福と女主人とに目をつけた男がいました。彼は幸福を自分のものにするため、まずは女主人に近づきました。男は飾りたてた装いをし、甘ったるい言葉を吐き、きれいな花束を贈り、彼女にしつこく付きまといました。しかし、どんな手を使ってどんなに時間をかけても、彼女のつれない態度はちっとも変わりません。ある日、ついに本心を露わにした男は彼女を力づくで捕らえ、地下牢へ閉じこめてしまいました。そして、女主人を救い出すためにやってきた幸福も、彼にまんまと捕らえられてしまったのです。
男は幸福のことを研究しつくし、実験に実験を重ね、幸福の偽物をたくさん作りました。彼はまず、幸福を欲しがる金持ちたちにそれをばらまいてとんでもない大金をせしめ、彼らよりもずっと大金持ちになりました。それから数年のうちに、手ごろな値段のつけられた幸福の偽物が次々に売り出され、ほとんど全ての世帯に飼われるようになりました。しかし、それらは巧妙にできた恐ろしい生きものだったのです。いかにも愛らしくて親しみやすい、そして時には甘美なほどに感傷的な幸福の偽物たちがもたらすのは見せかけの幸福であり、本当のところは不幸以外の何ものでもありませんでした。しかも、人びとがその本当の姿に気づきにくいだけ、なおさら性質(たち)の悪いものだったです。そのうえ、幸福の偽物はどうしようもなく短命なので、それが死ぬとすぐに新しいものを買い直さなければならず、人びとは追われるようにして働かなければならなくなりました。金持ちは高価なそれを、それほどお金のない者は自分の収入に合ったそれを買い求め続けましたが、実のところ、それらの間に見せかけ以外の大きな違いはないのでした。
人びとは余裕を失って寂しくなり、冷たい笑いをし、自分だけを愛して憐れみ、大したことがなくても怒るようになりました。噂やデマに踊らされ、人と憎みあって傷つけあい、自殺をし、不必要に動植物を虐殺するようになりました。人びとの多くは本当の幸福を忘れてしまっていました。そして、本当の幸福を忘れられない少数の人たちは、病院や牢屋に入れられてしまったのです。
ところが、生まれてくる全ての赤ん坊たちの目のなかに、輝き燃えるような幸福の面影が宿っていました。やがて、立派な若者に成長できた彼らのうちの数人が中心になって、この世の中を根本から正そうとする組織が結成されました。その組織は年齢も国境も超えて団員を増やし、活動を拡大し続けました。そして、何千何万もの仲間の死と引きかえに、ついに一つの真相をつきとめたのです。今や世界中の頭首に指図ができるほどの大富豪に成りあがったあの男に幸福という名の獣が囚われており、市場に出回っている全ての幸福が偽物であるということを。
それから数カ月が過ぎた満月の夜のこと。その組織の団員のうちの精鋭が、幸福とその女主人が囚われている屋敷へ忍びこみました。入念な計画と細心の注意によって、彼らは幸福と彼女を地下牢から連れ出すことに成功しました。その直後、団員たちは夜更けの街を必死で走っていました。欲深いあの男がそれに気づき、大勢の部下を引き連れて追いかけてきたからです。
男はただ一人で幸福を貪(むさぼ)りつくしていたために、恐ろしい巨人になっていました。男はその大きな体に似合わず、非常にすばしっこくて抜け目がなかったので、団員たちを次第に追いつめます。そこで、彼らのリーダーは男の目につきやすい建物の屋根へ駆けあがり、勇敢にも自らが囮(おとり)になって追手を引きつけようとしました。彼が跳ぶように走りながら振り返ると、巨大な眼をぎょろりとむいたあの男が間近に迫り、彼を捕まえようとして左手を上げています。リーダーが一巻の終わりを覚悟したそのとき、男は穴のあいた風船のように、急激にしぼみはじめました。そして、見るにたえないほど痩せさらばえ、何百年生きたのかと思えるほどに老けこみ、空気を引き裂くような悲鳴をあげ、身の毛もよだつような様子をして死んでしまいました。彼は幸福が近くにいないと、長く生きられなくなっていたのです。
こうして、幸福という名の獣とその女主人は、再び自由になりました。しかし、そのあとも彼らが無事でいられたかどうかは分かりません。今、あなた方が接している幸福は本物でしょうか、それとも偽物でしょうか。それらは簡単には見分けがつきませんから、どうかくれぐれもお気をつけ下さい。真実を見分けるには、一人一人が透んだ目を、透んだ魂を鍛(きた)えるしかありません。だから、世界のそのままと向きあい、できるだけ偏(かたよ)りをなくして感じ、考え、怠けずに生き続ければ、本当の幸福を見つけられるのではないでしょうか。
(おわり)
※フランスの歌手ブリジット・フォンテーヌの詞「幸福 (Le Bonheur)」へのオマージュを込めて書きました