「西海のフュフィファルフォスに住む海の民の間には、こんな伝説がある」
…真っ暗い深海を泳いだり、その底を歩いたりしていると、彼方から赤々と燃える火の玉が近づいてくる。次第に、何かが地面をがたごとと走る響きや、みしぎしという軋みが一緒になって聞こえてくる。それらは猛烈な勢いでやってくるが、こちらは金縛りにあって身動きが全く取れない。すると、一人の奇妙な格好をした貝人(かいじん)族の男が、炎に包まれた天狗車(てんぐぐるま)に乗って傍らを掠めていく。その男はサーチライトに似た眩い光を放射する気違いじみた眼をぎょろぎょろさせて、あらゆる場所を照らし出す。そうして、竜巻のような激しい海流をともなって通り過ぎ、その軌跡にはちらちらと燃える炎が点々と残されるという。
その貝人族の男はポププペルという名前だった。北暦198年に起こったマラトンの大海戦のとき、ポププペルはバググ連盟側で歯牙ない一兵卒を務めていた。やがて、連盟軍はモマメンタ連合軍に決定的な敗北を喫し、彼もまた撤退を余儀なくされた。敗走の際、彼は連合軍の捕虜となって連れ去られる人々のなかに、この世のものとは思われないほど美しい貴婦人を見かけた。ポププペルは彼女に一目惚れしたが、大追撃を受ける最中でとどまることが適わず、泣く泣く逃げのびた。
しかし、故郷へ帰ってからも彼女のことをどうしても諦められない。いや、かえって慕情がどこまでも募り、身も心も張り裂けんばかりになった。手がかりは、彼女が深海を二足歩行する種類の貝人族だということと鮮やかな炎を身に纏っていたということ、恐らくは高貴な家柄に属するだろうということだけ。大海戦の結果、モマメンタ連合は世海(せかい)のおよそ八割を支配することになったので、彼女を見つけるためには広範囲にわたる探索をする必要があった。また、炎を帯びたその姿から察するに、彼女は海底火山下のマントルを住み家にする可能性もあった…というわけで、それ以来ポププペルは硬い殻に身を包んで天狗車を駆り、時に海底火山を潜ってマグマの動脈を進みながら、世海中の深海の底を走りまわっている。愛しい彼女を求め、寝食も忘れて…
「ポププペルは彼女と会えたかな」
「二千年以上を経た今でも目撃情報が絶えないくらいだから、会えずにいるんじゃないかな」
「じゃあ、未だに死ぬことさえできずに駆けずりまわっているというわけか。悲惨だな」
「いや、幸せかも知れないよ。絶えることのない希望と情熱に支えられて、気が遠くなるような長い年月を走り続けてきただろうから。もしかしたら、これから先も永久にね」