1世紀前、蜃気楼がぽかりと浮かぶ北の港町で「町いちばんの美(うつく)しっさん」と呼ばれた男の血を受け継いだ女は、その美しさの呪いにより、生涯にわたって苦労をせおうことになった。
美しい男——わたしの曾祖父は、地主の14番目の子、待ちに待った嫡子として生まれたが、医者から「20歳を待たずに死ぬだろう」と告げられた。
長らく男子がうまれなかったことから、地主夫婦はやむなく、長女の婿を跡継ぎにすると約束してしていた。田舎において、親族の決めごとは錨のごとく重い。長男に譲るものは、なにも残っていなかった。
なんとあわれな息子、うまれつきの権利を失い、さらに命までも早々に消えてしまうとは! 美しくうまれた生きものは、蜃気楼の向こう岸につれていかれる運命にあるのよ、と地主の妻はさめざめと嘆いた。許しておくれ、玉のような坊や、おまえの目が小さく、唇が薄くなるよう生んでいれば、おまえは死なずにすんだのに。
ひとしきり悲しみに打ちひしがれた夫婦と13人の姉は、このかわいそうな坊やが、せめて現世ではなにひとつ不自由がないようにと、あらん限りの愛情と資金をそそぐことに決めた。
日ざしに当たらないよう、彼が外を出歩くときは、ばあやか姉が日傘をさした。先鋒をいく下男は、石ころや障害物を道からよけて、坊が転ばないようにするという大役をおおせつかった。彼が目にとめた道具、手にとった舶来品は、どんなものでもすぐに与えられた。「これはよい」と言おうものなら、姉たちの命により、店主は類似する品をありったけ蔵から出してこなければならなかった。
欲しいと言われずに与えられたものは、凍てつく冬の雨と数十種類の薬、そして焼夷弾ぐらいのものだっただろうか。
70の爆撃機が蜃気楼の彼方からやってきて、曾祖父が受け継ぐはずだった畑に、丸薬の雨のような機雷を数百発、投下した。彼が毎日のように隠れては小作人を困らせていた畑は煌煌と笑い、うめき、燃えさかる夜空へと赤い腕をのばして泣き叫んだ。
ここが終着点だと、曾祖父は確信した。世界が用意した最後の舞台にしては、悪くない出来だった。もっとも、いくつか下男になおさせたいところはあるが、そんなこともいっていられない。彼はすでに、医者が宣告した齢を5つもすぎていた。
だが、彼は生きのびた。舞台にのぼろうとしたら、おまえさんにはまだ早いと、黒い手によってスポットライトの当たる場所から引きずりおろされたようだった、と彼は語ってくれたものだった。あの夜はたしかに人生の頂点だった、わたしはそれを逃したんだよ。誰よりも早く死ぬと信じられた美しい男は、誰よりも長く、1世紀を生き長らえたのちに死んだ。
戦争が終わり、どうやら医者の宣告が法螺話だったと気がついたとき、13人の姉は一列に正座して、結婚しなさいと弟に告げた。姉を思いやる気持ちから、男は数十枚の見合い写真に向かってオナモミを投げ、命中した写真の女と結婚した。
焼夷弾は死の予言を浄化させたが、美しさの呪いは血の中にもぐり、受け継がれた。美しい男のひとり娘としてうまれた祖母は、外国人のようなはっきりした目鼻立ちと、貴族のごとき気丈な性格から、五歳の誕生日を待たずして「美(うつく)しっ子」として港町中に知れわたった。
洒落者だった曾祖父は、愛娘には舶来ものの赤い靴をはかせた。他の子どもらが襤褸をまとい下駄でからころと走りまわるなか、祖母は麦わら帽を斜めにかぶり、白いワンピースのリボンを海風にはためかせていた。
異人の子、異人の子、向こう岸からやってきた異人の子おおう……。自分たちとあきらかに違う容貌をした祖母をかこみ、地元の子らは囃し立てた。靴と服を汚すとたいそう怒られたので、赤い顔と白い石つぶての猛襲でもって、彼女は野次を蹴散らした。
蜃気楼の向こう岸は、春霞の日に立ちのぼる黄泉の国であり、ひとりで浜辺をさまよう者が連れ去られる魔の境界だった。うまれながらにして、祖母はすでによそ者であった。
あちらから来たおまえさんは、われわれとは違う。違う。違うのだ。たえず四方から投げつけられる黒い言葉の渦中で、少女は石と貝を片手に踊り狂い、やがて赤い靴は激情と血をおびて深紅に染まっていった。
容姿は取り替えられない。自分は自分からは逃げられない。ならば、どこまでも目立ち抜いてみせよう。したたり落ちた深紅を指にからませ、唇に一筋はけば、男たちがめだかのように群れをなして、彼女のまわりをぐるぐると舞った。学校から家まで送る担当名簿はつねに満員で、男たちは夜更けまでカードゲームで空き枠を競った。
だから、マドンナが選んだ結婚相手が地味な工学生だったことは、周囲にどれほどの衝撃を与えたかは想像にかたくない。美しさの呪いを身にしみていた祖母は、美しくない男、妻を泣かせない男、隠し子と愛人の噂がひっきりなしにつきまとう父のようでない男の手を取った。
しかし、優しい男の手をとったはずの祖母は、早々に手に持つものを変えるはめになる。ひとり息子を溺愛するあまり、季節が変わるたびに「息子を殺してわしも死ぬう!」と発狂して包丁を振り回す姑に、まな板となべぶたで対峙しなければならなかったからだ。かつて異人と呼ばれた女が出会ったもうひとりの異人、あるいは、はじめての狂人だった。
わたしの記憶の中の祖母は、炎に包まれた薔薇のような女、どこまでも赤く、激情を胸に抱えながらほほえむ女帝であった。
その炎は彼女だけではなく、周囲の人間をも巻きこんで延焼した。あの男の血がはいっているのよね、と祖母は幼いわたしを見おろしてつぶやいた。父のことをたずねるとき、彼女はいつも笑顔、かつて多くの男を狂わせた笑顔でわたしに接した。なぜ、お母さんはお父さんと結婚したのかしら。なぜ、あの男の血がはいっているのかしら。女帝が気にいる答えを、わたしは持ち合わせていなかった。
答えを持たない問いを向けられたとき、わたしは祖母の薔薇園に逃げこんだ。野薔薇の棘は闖入者を容赦なく刺したが、そんなことはなんでもなかった。
人差し指に浮かぶ血の玉をながめながら、体の血の半分をいれかえたら、祖母はあの問いをやめるだろうかと考えた。子供はいつだって、そういうことをしごくまじめに考える。かつて曾祖父を祝福した焼夷弾の雨のように、燃える降りしきる赤は、祖母の胸に広がる荒れ果てた砂漠をたたくだろうか。
指先に力をこめると、ぷつり、と音を立てて、血の玉が大きくなる。霧雨の薔薇園に座りこんでなめた指先は、いちごドロップの味がした。