そして私は、買ってきた、マカロニサラダをテーブルの上に。
続いてポケットの中の釣り銭、その硬貨数枚をひとつかみに取り出して、押さえつけるように「がちゃり」 と据えた。
テーブルの上に置かれた硬貨数枚は、「ぽん」と押された猫の足跡のように並び、それはなんだか今日一日を、「終わったねぇ」と承認した、肉球による捺し印みたいで、私はちょっと安心する。
それはつまり、まだ一度も別れたことのない、私の中の猫のこと。
それはつまり、一度しか別れられない、私の中の猫のこと。
今日一日が、まるで、やんだばかりの雨を含む砂地のよう。それでここには、猫の足跡。
帰りがけに買ってきた、マカロニサラダを前にして、私の中の猫は「はやくフォークを用意しようよ」って言う。
でも、「コーヒーをいれたいんだけど」って、私は思う。
「コーヒー? いやいや、わかってないね。今必要なのは、この穴の開いたマカロニに、爪みたいなフォークを突き刺すことだろう」
私の中の猫は、テーブルの上を見つめながらそう言ってる。
それで私はコーヒーと、着替えのことも後に回して、マカロニを前に席につき、猫と一緒にフォークを持った。
私の中の猫は、この小さな部屋に戻ってきたとき、たとえば、自分が押し退けた空気の分量について考えていたりする。
月から窓を通ってやって来る、淡い光を風のように受けるとき、ヒゲをすこし振ってみせたりする。
それに舌を出す。爪をしまう。
左目でぎこちないウィンクをし、鏡へ私を映すときには、ポケットへ手を入れて斜に構えたポーズを取る。
そうやって、私の中にいることを、私に示す。
さっきは「ぽん」と一日を承認する、捺し印のような足跡を、テーブルの上に残してみせた。
今、その判の持ち主は、夕食に買ってきたマカロニサラダを、私と一緒にフォークの先で転がしながら、具合をみているところ。
猫。猫。私の、中の猫。
それが、私を見上げる。
どこから見てもまんまるな、猫の瞳に映りながら、「でも、あれだよ」と私はつぶやく。
わけもなく胸がいっぱいだし、すぐにはマカロニを食べられそうになくって、だから「コーヒーも必要だと思うんだ」って、言ってみる。
私の中の猫は同意する。
「そうかもね。こいつは遊びじゃないんだし」
「そりゃあ、そうだよ」と私は思う。こいつをきちんと食べておかないと、きっと明日が続かない。だから───
「だからやっぱり、コーヒーを淹れよう」
フォークを置いて、私は席を立った。
ちいさなキッチンへ歩いていくと、私の中の猫はついてきて、
「そいつはブラックコーヒーかい?」
と、見上げるように聞いてくる。
「いや、ミルクを入れようと思うね」
と、ポットを火にかけてから、私は返す。
「いやいや美しくないね。夜みたいな色のブラックコーヒーがいいよ」
私の中の猫は、そう言ってしっぽを振るから、そのせいで私は、続けて三度のくしゃみをした。
ひゅーっ、とお湯が沸き、ぶぶぶっ、と蒸気が吹きこぼれ、私はちょっと身を引いて、手だけ伸ばして火を止めた。
猫はひげを守るようにして、私の視界から退散する。
私は、粗めに挽いたコーヒー豆をしっとり蒸らし、熱湯が少し温度を下げるのを待ってから、三度に分けてお湯を注ぎ、夜より見通しの利かない色のコーヒーを淹れた。
「さて、どうするね」
一口コーヒーを飲んだところで、私の中の猫がひょいっと出て、そう聞いてきた。
「寝る間はないね」
と、私は時計を見て考える。夜が明ける前に、もう家を出なくちゃいけないし、夢見ることには、少々遅いよ、と。
「やって来るのは、夜の名残りかね? それとも、朝の始まりかね?」
私は返事をしなかった。
頭の中で、ゴミをまとめて出しておいたほうがいいな、なんて考えているところだったし、朝か夜かなんてこと、深く考えようとは思わなかったし。
「ねえ、起きるほうの手前かね? それとも眠りの、終いかね?」
私は返事もしないまま、大きな袋にゴミをまとめ始めた。
きれいに暮らすことは、とても難しく、暮らすことできれいになっていくのは、もっと難しく、ゴミは思っていたよりもずっと多くなり、袋は、サンタクロースが背負っている袋のように膨らんでいった。
私はそいつの口をぎゅっと縛り、部屋の扉を押し開けて、まだ暗く冷たい外の空気の中へと出ていった。
アパートの階段を小走りに駆け降りて、通りへ出ると、星を縫いつけた夜空が、天幕のように大きくあった。
明けの気配は裾や端からで、黒々とした山の稜線をあたりには、わずかばかりの青みが混じり始めていたけれど、町のほうは、まだ静かで、色もないままだ。
大きなゴミ袋をかついだ私が、ゴミの捨て場まで歩いて行く途中、街灯が一本、ぽつんと立っていて、私の影法師は、その下でだけ濃くなった。
私はゴミを出し、一息つきながら、東のほうの空を見た。
順番待ちの気配を、舞台の裏で密めくような夜空だった。
空の低いところに、細い釣り針のような形をした月が見え、ひときわ明るい星もひとつ、近くにあって、私は腰に手を当てて、しばらくそれに見入ってしまった。
あの釣り針のような月の細さにみとれることを、なぜだか、どうしても、やめられなかった。
「おいおい、僕を部屋に忘れてったんじゃない?」
声に気づくと、一匹の猫が、傍の塀の上にいて、私のほうを見ていた。
「いや」
私はまた、東のほうの空を見た。
どうしても、あの、見事に尖ったガラス細工のような月から、目を離すことができなくなっていた。
それで、つい声に出して、「釣れそうだ」と言った。
「ほう。何を釣るんだい?」
横目で見ると、楽しそうな素振りの猫が、細い電線を釣り糸に張った竿を、弓なりにして構えていた。
「いや、何が釣れるってこともないだろうし、たとえの話だよ」と私は言ったけれど、猫は事もなしにさっと黒い竿を振った。
すると、たわんだ電線の先が、見事に東の空へつながっていき、途中で星をひとつ括りつけ、最後にあの釣り針のような細い月へとつながれた。
途中で結ばれた星は、浮のように瞬いて揺れている。
「朝を釣り上げようっていうわけさ」
猫は、くいっと月の針を引き上げた。「おん」っという音を立てて、稜線のむこうに控える色味が動いたようにみえた。
平均台の上を、一方通行で進むときのような緊張感を持って、何かの仕組みが、戻らない気配を強めたのだ。
私はちょっと慌てて、
「ほら、もういかなくちゃだよ。始発に乗らなきゃいけないんだから」
と猫に声をかけ、部屋へ戻るようにうながした。
猫はつまらなそうにしながら、釣り針を引くのをあきらめて、竿を置いた。
東の空を振り返って見ると、月の釣り針と大きな星の浮きが、最初に見つけたところよりも高い位置にあって、いくぶん青味を増した夜空の手前には、たわんだ電線を結ぶ電柱が、シルエットになって立っていた。
朝が、いつもよりちょっと早く、近くなっていた。
「さあ、準備はできた」
出かける準備を終えて、私は部屋の中を見回した。
きちんとゴミは捨てたし、食器も洗ってある。きれいな部屋。なにもいない。もし、誰も戻ってこなかったとしても、住人がいったい何時までいたのか、特定するのに困難なくらいのきれいな部屋だ。
それから鍵を持って、新しい靴を履く。
旅行かばんを手にして、扉を押し開く。
私はそこで、じぶんの小さな部屋を振り返る。
私の中の猫が、部屋に取り残されてないかと、ちょっと不安に思ったのだ。
誰もいない部屋は、私がさっきまでそこにいたことを、もう忘れていて、私や旅行かばんや厚手のコートや使い古した手帳がなくなった分の空気も、ぴったりと埋め合わされて、もうちゃんとしているのを見られるから、だから、
……だから私の中の猫は、今はしゃべらないけど、今日もまだ一緒に出かけていくみたいだなって、そう思う。
それは、まだ一度も別れたことのない、私の中の猫の話。
これは、きっと一度しか別れられない、私の中の猫の話。
新しい日も、どこかへ逃げたりしないで、どうかよろしく。
もちろん、返事はないけれど、私の中にはひとつ、ロウソクの炎のような熱が、ぽっと灯っているのがわかる。だから私はひとり口に出して言う。
「じゃあ、行こうか」
すると明け方の空の下を歩き出す私の中で、ちいさい炎のようなぬくもりが、猫のしっぽのように、揺れて返した。
◇
アパートメントを出る日がやってきました。いくつか、ここで過ごしたから生まれた記事を書きました。ここへ来なければ、知ることのなかった縁にも出会いました。今日で僕は部屋を空け、部屋には次の人がやってきます。新しい始まり。
でも、ひとつだけ最後に。ここでの接点が、このアパートメントの中だけで途切れてしまうものでありませんように。引越しの挨拶を記した葉書にかえて、同じように書き同じように続く場所へのリンクを残していきます。またお目にかかりましょう。おやすみなさい。