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2F/当番ノート

コーヒーの話

当番ノート 第10期

このアパートメントで書かせていただくのも早4回目。
はじめて書いた日と比べて陽が落ちるのも気付けばずいぶん早くなってきて、記事が更新される18時の景色にもどこか寂しさが混ざります。
そんな今日はコーヒーについての話。どこか落ち着いた場所でゆっくりと読んでもらえるとうれしい。

好きな飲み物はなにかと聞かれたら、色々あるけど一番はコーヒーと答える。

コーヒーのどこが好きかと問われると、ひとまず味と香りの魅力について語ると思うけれど、それだけではないな、という気もする。
そもそも、どこが好きかという質問が成立する時点で興味深いじゃないかと思う。好きな飲み物を聞かれたら普通は味の嗜好の話で完結してしまうものだ。でもコーヒーの場合、そこには喫茶店文化などが結びついているから、最近行ったお店の話、それが重要な位置を占める物語や音楽の話にも飛び移りやすい。「コーヒーが好き」という人は、あの黒い液体そのものだけではなく、それにまつわる文化も含め惹かれている、という感じ。

かといってコーヒー自体はどうでもいいのかと言うと、勿論そんなことはない。コーヒーはその味の種類、広がりが可視化されていて、かつ僕らにも委ねられているから面白い。
コーヒーショップに行けば、レジ前のショーウィンドウにたくさんのコーヒー豆が売られているのを目にするだろう。
コーヒー豆は地域、農園ごとにそれぞれ味の特徴がある。同じ豆でも、焙煎の度合いによっても味が左右される。
考えてみれば、地域や条件によって味が変わるのは当たり前のことで、それはコーヒーに限ったことではない。野菜や動物の肉だってそうだ。ただ、それをどの程度可視化するかでこちらの気分が変わってくるのだと思う。林檎の絵に色をつける時に、ただすべてを赤く塗りつぶすか、それぞれのなかにある濃淡を見定めるかの違いだ。
コーヒーショップに並ぶ、そこの主人が自身の味覚を頼りに選んだ豆の数々。ただでさえたくさんの種類があるし、季節限定の豆やブレンドもあるから、それを全て飲むことは不可能に近い。仮に一軒のコーヒーショップの豆を全種類飲むことができても、隣町に足を運べばまったく違ったコーヒーに出会うことになる。それは本屋やCDショップへ行った時の、愛しい途方のなさにも似ている。

街の本屋を応援しよう、という動きをここ数年目にする。
アマゾンや電子書籍が勢いづくなかで、紙の手ざわりが好きな人や本に囲まれる空間を愛していた人がその想いを再確認しはじめた、そんなこの動き。狭い空間だけれど、まだ若い店主がこだわりをもってセレクトした本をセンス良く並べる、そういう本屋が最近はどんどんできている。
店主の考えがぴんと張り巡らされた店内は、気取っていてもがさつでもそれが板についていてかっこいい感じ。本屋でもコーヒー屋でも、良い店はもう入った瞬間の雰囲気が違う。そしてそういう店は矛盾や小さな嘘がない、という点で通底している。だから、そういう本屋が好きな人は、多分コーヒー屋も好きになれると思う(苦いのやカフェインがだめでなければ)。
それに、そもそもコーヒーと読書は親和性が高い。その証拠に神保町なんか喫茶店だらけだ。

さて、話は戻って、コーヒーのどこが好きか、という問題。
豆の種類や味の多様さはやはり奥深くて魅力的だ。こうして文章を書いている時や本を読んでいる時には頭よ冴えろと手元に置いておくし、小説を読んでいてコーヒーに関する良い描写があれば、おっ、と思う。雰囲気の良い店で誰かと話しながら飲むのも良い。
でも、一番コーヒーが好きだと感じるのは、実はコーヒーを淹れている時かもしれない。

コーヒーの淹れ方にも色々あるけれど、基本的に僕はペーパードリップという方法で淹れる。豆によっては他の淹れ方の方が特色がちゃんと出たりするから、そういう時は他のを試してみるけど基本はこれ。この淹れ方が好き。
挽いた豆をセットして、湯を注いで豆を蒸らす。新鮮なものだと豆が炭酸ガスを吐きながらもこもこと膨らむので、こいつも生きてるんだなあ!などと思ったりする。
豆がじゅうぶんに膨らんだら、円を描くように湯を注いでいく。単純な作業の連続だけれど、湯の温度や注ぐ速度が味を左右するというマニアックな世界でもある。
そのマニアックな世界がどの程度本当で、どの程度知覚できるものなのかはわからないけれど、丁寧にこなすことでおいしくなるというのはどこか魔法めいていて悪くない。実際その工程を怠らないことで、僕の気分はたしかに整う。味は確かめようもないけど。

コーヒーを淹れていると、丁寧さがどんな風に人生を変えていくか、ということをふと考える。
毎日は同じことの繰り返しだ。ただそれは表面的な話であって、僕たちの内側に同じ時間は二度と訪れない。でも、人はわりと簡単にそのことを忘れてしまう。
丁寧になにかをすることは、今は今だと享受することであり、「繰り返し」という悪い夢を打ち砕くことだと思う。それは日々の解像度をぐんと上げる。いつかの繰り返しだったような今日に、新たな色彩を浮かび上がらせる。

写真

今は今だと実感することは、夜を朝に変えられるわけでも、憂鬱を吹き飛ばせるわけでもない。けれどそれがもたらす瑞々しさは、日々を少し健全にするかもしれない。
口に含んだ苦みを飲み干す瞬間はいつも、どこか前向きな感じがして好きだ。

小沼 理

小沼 理

1992年富山県出身、東京都在住。編集者/ライター。

Reviewed by
小沼 理

一杯のコーヒーから今を生きていくことへ

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