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2F/当番ノート

宇宙の缶詰(僕ら)

当番ノート 第10期

自分の心臓の音がやけに気になる日があった。

そのことに気付いたのは寝る前のこと。部屋の明かりを消して、ごろんと横になる。今日あったことや、明日やることを考えながら目を閉じる。でもいつになっても眠気が訪れない。はやく寝ないとなと考えれば考えるほど、目はさえる一方。
うつぶせになったりあおむけになったり、体勢を変えてみても効果はなし。仕方なくそのままじっとしていると、どくんどくんという音がだんだん大きくなって、体全体が心臓になったような感覚に見舞われる。眠りにつくと、同時に心臓も機能を停止してしまう気がして、うとうとしてははっと起きるのを繰り返す。

それでも、その日は気づくと寝てしまっていた。
寝る前は部屋が静かだから、そういうことも起こるのだろう。時計の音が気になるように、心臓の音が気になることだってあるかもしれない。そう思ってその日は深く気にしていなかったのだけど、次の日も、その次の日の寝る前にも同じことが起こり、そしてついに日中にも感じるようになった。
高校のころ、姉の心臓に小さな穴が見つかり、一時期激しい運動を禁じられていたことがある。だからもしかすると自分も、と一応病院に行ったのだけど、特に異常はなし。精神的なものかもしれない、と言われたけれどぴんとこない。
またおかしいと感じたら来てください。そう言われてその日は返された。
その後動悸はいったん治まり、たまに気になる時はあるけどまあ大丈夫そう。病院にも行かずに済んでいる。

このどくん、という一回一回が勢いよく血液を運んでいる。考えると不思議なものだ。皮膚の下のなんてことない細い血管にも、血液が絶えず流れている。そう考えると突然体中がざわざわしてくる気がする。動悸があると思わずそれを意識してしまうから、けっこう厳しい。
心臓が止まれば、すぐにではないけれど死んでしまうんだろう。でも、それを動かしているのは自分ではないのだ。
心臓は僕が動かそうと思って動いているのではないから、いつはたらきを停止するかもわからない。心臓は僕の生きたいという意思を汲んで動いてくれているのでは決してなく、たまたま利害が一致しているだけ、という風に思えてくる。体の捉え方がきわめて他人的になる。奥の方でごとり、と硬い音がする感じ。
例えば僕が歌を歌ったり踊りを踊ったりする人だったら、もう少し捉え方は違ってくるかもしれないな、と思う。体と自分は協力的な関係、あるいは主従関係だと言えたかもしれない。今のところどんなに精神や脳や、それにまつわる医学が発達しても、肉体を離れることはできない(少なくとも現世では)。だからそういう肉体を使った芸能には興味と強いあこがれがある。肉体との結びつきが強いぶん、今を生きていることを自然と肯定できてしまう表現のような気がする。
肉体を使う表現に比べて、文を書くのはどこか今を生きている感覚が希薄で、一瞬のための緊張感があまりない。文を書いている時の何かをひらいていく緊張感や、あるいはごまかしが心地よくて、もちろん気に入ってはいるんだけど。

赤瀬川原平という美術家に「宇宙の缶詰(蟹缶)」という作品がある。
蟹缶を買ってきて、中身を食べる。それからそのラベルをいったん剥がして内側に貼りなおし、はんだで閉じる。缶詰はラベルが貼られているほうが外側だから、この作業によって元々の内と外が反転する。つまり宇宙全体が理論上缶のなかに包まれてしまう、という作品。

心臓の音が気になった時、僕はなぜかこの作品を思い出したのだった。
肌というラベルを挟んで、自分の体が外側に、この世界が内側に反転する感覚。肉体は閉じられた外部という感じがして、列車が走るように血液は走り、臓器が惑星のように佇んでいるのが見えた。

蟹缶は缶のわずかな内部(理論的には外部)を除く世界のすべてを包んでいる。
これをたとえば蟹缶とサバ缶で作ってみる。そうすると、蟹缶で包むことができなかった内部(外部)はサバ缶が蟹缶もろとも包むことになる。サバ缶が包めなかった内部(外部)についても然り。
これを、僕たちにもあてはめてみる。
僕が包むことができなかった僕の内部(外部)を誰かが僕ごと包んでいて、その誰かが包めなかった内部(外部)を僕や、また別の誰かが包んでいる。世界はそのように補完されていて、僕は誰かの一部になる。正確な理解、鮮やかなだけの興味、軽やかな無関心。どんな方法であれ、僕はすべてを梱包し、あらゆるものに梱包される。自分の内部(外部)を包むことだけができない。それは、それ自体を包んでしまうと梱包がほどけてしまうから。内部/外部の認識があるから梱包は成立する。自分というものがいなくては自分の世界は成立しないけれど、中心にある自分が何よりも得体が知れないという構造。

肉体が外部で世界が内部だとする場合、意識はどこにあるか。
意識は世界を立ち上げるものではあるけれど世界そのものではない、と思う。では意識は肉体の方にあるかというと、僕はそれをまっすぐには肯定できない。それは心臓が他人的と感じる違和感にも繋がっているだろうし、ここから掘り下げていけば死生観、宗教観へも繋がっていくだろう。
世界は(僕たちの内部は)ひとつだ。でも、その定義は(僕たちの外部は)ひとつじゃない。

ずいぶんややこしくて感覚的な話だ(ややこしいのは僕の力不足です)。でも、そういう感覚的な、代替の効かないものが大事だと最近は思う。あなたの感覚はどこから来て、どこへ繋がっていますか。終わらない自由な回路が、たくさん開かれますよう!

小沼 理

小沼 理

1992年富山県出身、東京都在住。編集者/ライター。

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