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2F/当番ノート

新たな星座を作るように

当番ノート 第10期

ゴッホの伝記映画を見た。
『炎の人ゴッホ(原題:Lust for Life)』という1956年公開の映画で、ゴッホが20代の半ば、聖職者になることを諦め本格的に画家を目指すところから、37歳で自殺するまでを描いた映画だ。

まず主演のカーク・ダグラスがゴッホにそっくりで見入ってしまう。また、ところどころで美術館に所蔵されている本物のゴッホの絵を大写しにしたり、『夜のカフェテラス』で描かれた実際のアルルのカフェでポール・ゴーギャンと会話するシーンがあったりと、ゴッホという人物が何を見てどう描いたか、をできるだけ本物の資料を使って紹介しているのが良かった。
大写しにされる絵画も当時のビデオ技術でのことだから、僕たちが今PCで検索すればもっと鮮明な画像を簡単に見ることができる。ロケで撮影したシーンは綺麗だけれど、スタジオセットで撮影された場面にはチープな箇所もある。しかしそうした点を差し引いても、この映画に漂う執念のような並々ならぬ雰囲気は褪せない。映画のDVDに収録されているオーディオコメンタリーでも語られている通り、主演のカーク・ダグラス、監督のヴィンセント・ミネリは共にゴッホにただならぬ自己投影をしている面がある。その感情がこの―画家の半生とは裏腹に―どこか淡々とした印象を与える映画に、強い陰影を投げかけている。

この映画のDVDを借りてきた翌日、ゴッホの新たな作品を発見、というニュースが報じられた。まったくの偶然なのだけど、それにしては大きな出来事で、少し驚く。
『モンマジュールの夕暮れ』と名付けられたその作品は『ひまわり(同タイトルの作品が複数あるけれど、うち一点は新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で見ることができます)』と同時期のものだという。それはゴッホの美しい黄色が開花した時期だ。美術には詳しくないので付け焼刃だが、この時期のゴッホは「補色」という、たとえば赤と緑、黄色と青といった相反する色を同時に使うことで絵の鮮やかさを際立たせる技法をよく用いていたらしい。

ゴッホの作品群で僕が好きなのは、星が描かれているものだ。
アルルのカフェを描いた先述の『夜のカフェテラス』、大きな北斗七星と水面に映る港町の灯が希望を想わせる『ローヌ川の星月夜』。ゴッホは少なくない作品に星を描いた。
中でも特に好きなのは晩年の彼が精神病院に入院している際に描いた『星月夜』。
うねりながら天へ到達せんとする糸杉、ぐるぐると渦巻く夜空に浮かぶ星と月。星は今にもその渦に飲まれてしまいそうでもあるし、力強い渦に煽られながら不思議と安定しているようでもある。空の群青と星の黄色の補色関係は、象徴的な意味でも互いを補完しあっていて、ゴッホはこの絵の中で自らの不安を表現しながら、全体的には救済の絵になることを夢見ていた、そんな印象を受ける。

ここまで書いて、僕は沖縄で見た星々を思い返す。
無数に散らばる星々の、さまざまに明るい輝き。ただ見ているだけでは平面だけれど、星との距離を想うと宇宙が奥行きを持って感じられること。隣り合って見えるふたつの星が、実は遠く離れている。一番明るく見えるあの星が、今はもう爆発して消えている。

宇宙ではその広さゆえに空間的な距離と時間的な距離がほぼ同義だ。それを地球から見たもの、平面に均したものがあの夜空。
夜空として均す時に無視される、星との計り知れない時差。ひとつひとつの星が抱えている数えきれない時間。そんな色々をくらやみの内に潜めながら、夜は無数の星々をひろげる。
今ここから見えている星を数えるだけでも気が遠くなるのに、本当はそれ以上の星が存在している/存在していた。

星が届くまでの時差は不思議に面白く、同時にかなしい。それは数々の芸術や、愛や、誰かが生きたことに似ている気がして、人ごとのように置いておけない。

生前にゴッホの描いた絵で売れたものは一枚だけだったという。
ゴッホの星々は、ゴッホという人が燃え尽きたあと、ようやく僕たちに到達した。誰も見たことのない黄色を伴って。
そんな風に遅れて届くものがどれほどあるだろう。あるいは通り過ぎてしまうものが。

seizahayami

彼に同情しているのではない。
仮に彼が生前に評価されて、その世界線でも『星月夜』のような絵が生まれたかはわからないし、それで早死にが免れたとも思わない。そしてそうなっていたらおそらく映画『炎の人ゴッホ』は作られなかったし、僕もこれを書かなかったと思う。
彼が描いた絵の輝きは未だ有効だけれど、ゴッホという人物は僕にとってはただの歴史に過ぎない。あれこれ想像するのは楽しいけれど、そんな一片の想像より、ずっと躍動しているのがこの現実だ。現実は70億以上の想像なのだから。

全てを見ることができるとは思っていない。
それは事実だし、もし仮にこれまであった全てが同時に到達したら、それは多分何も見たことにはならない。空を隙間なく星で埋め尽くせば、それはもはや夜のかたちを成さない。だから、僕たちが星を見止めるためにも、空は暗くなければいけない。これも象徴的な補色関係、なのだろうか。

ただ、全てを見られないなら、見たもののなるべく多くを特別にしたいと思う。煌めきが届いたなら、こちらからも光を送りたいと思う。僕の場合は言葉を使って。

新たな星座を作るように。

小沼 理

小沼 理

1992年富山県出身、東京都在住。編集者/ライター。

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