人生はとにかく複雑だ。
社会もズンズン複雑になっている。
いつから子どもは大人になるのだろう。
こういうことを考える時点で既に複雑に考え過ぎているのだけれど、いつからか何を考えるにもバイアスがかかることが多くなってしまったように思います。
子どもはある意味、痛快なほど単純で柔軟です。そして、脳も若く発達段階で、恐るべきポテンシャルを秘めています。
それに引き換え大人は、単純というには程遠く脳の動きも複雑怪奇。
ただ、不思議なもので、年をとると今度はまた単純へ戻ってきます。ボケというのも、視点を変えれば脳がシンプルになってきていると言えるかも知れません。
こうやって人生を考えてみると、年齢と単純さの関係は反比例しているように見えてくるのが面白くもあります。
上手いこと正比例した人生を送れたら、どんなに素敵だろう。何がそれを阻止しているのか、答えはなかなか出て来そうにありません。
「好き」という感情は、もっとも自然で根源的な感覚のひとつ。人間生活には欠かせない感情です。
好きが無ければ嫌いも無いし、人間が欲する感情である好奇心も興味もなくなってしまうでしょう。
その「好き」に、理由は要りませんが、何かにつけて理由を見つけようとするのが大人です。
試しに、一番好きな食べ物を挙げてみてください。
5秒以上掛かったのであれば、それはノイズが入っている証拠。
確かに1番を選ぶのは難しいし、1つしか選んではいけないと思うと吟味したくなる気持ちも判ります。その上、1番好きな理由を導き出さなくてはならないのですから時間が掛かって当然です。けれど、その1番でなくてはならない理由を考え始めると、今度はそれが好きがどうか判らなくなってしまったりすることもあったり。なんともまどろっこしい大人の作法です。
ここに細かく指定を入れると、少し楽になりますね。例えば、「一番好きなデザート」や「一番好きな肉料理」など、細かくそれぞれに分類すると途端に選ぶのが簡単になっていくはずです。もしくは「好きな食べ物ベスト10」のように順位をつけると、ひとつに絞らなくて済むので随分と楽になるのではないでしょうか。
分類し理由を考えるのが「好き」なんでしょうね。
その点、子どもはその時に思った1番が直感的に導き出されてくるような気がします。導き出されるというのは適当な表現ではなくて、彼らは選んでもいないでしょう。だからコロコロと答えがその都度変わってくるのも頷けます。そして、その答えは裏表や駆け引きがあるわけでもなく、いつも本心で発せられているので説得力があります。面白いのは、子どもが答えた良く判らない回答に、大人が「こういうことだから、そう言ったのだろう。」と理由をつけてしまうところです。
社会を複雑にしているものを考えてしまうと単純には見出せないでしょうが、単純に感じてみると意外と単純なものが原因だったりするのかも知れません。少しばかりでも正比例に生きるためには、自分の好きなものをハッキリさせると進み方が見えてくるようにも思います。花や木などの植物を美しいと思うのは、純粋に花や葉を広げているからであり、生野菜が美味しく見えるのも同じ理由でしょう。
好きは好きでいいのです。
理由は要らないのですから。
この単純な「好き」という感情・感覚を、人間関係であったり地球環境についてであったり、更に広げて政治の世界でも出来たら、複雑な中にあっても豊かな生活を送れるような気がするのです。
20/11/2013 Masa Nakao