高い空を泳ぐ鰯雲と冷たい匂いの混じり始めた風、色づき始めた木々の枝葉から差し込む光はモザイク模様を地面に描いている。何が男の心に訴えたのか、さして理由があるわけではなかった。しいて挙げるとするなら、そう、午後の柔和な日差しがそうさせたとしか言いようがない。男は、この10年間ほとんど思い出すことのなかった友人をふと思い出し、訪れようとしていた。さてどんな顔をして行ったら良いものか、男は思った。親しかったのか、知り合い程度だったのか、距離感も温度も失われている。そもそも会うための格別の理由もないのだから、会わせる顔が見つかるはずもない。
「ふと顔を見たくなったから」というのでは、何故今日この日でなければならないのか説得力に欠ける。逆に言うなら、この10年間顔を見たいと思わなかったということになるのではないだろうか。顔を見たいというのは、数ヶ月、長くて数年の間会わなかった相手に対して言える言葉だ。だがよくよく考えてみると、相手の顔を思い出せないことが男には分かった。それならば顔を見たくなるのにも説得力が生まれるが、顔を忘れたから会いに来たというのでは失礼すぎるではないか。男はあれこれ考え、「近くまで寄ったから」ということにした。
道すがら顔を上げると、コナラの枝には緑色のどんぐりがたわわに実り、時を待っている。それらの一つ一つを識別できないことを男は残念に思った。
扉の前までやって来ると男はためらった。どうやってノックすれば良いのか。トントンと叩けばよいだけだがその加減が難しい。小さすぎては、屋根にどんぐりが落ちた音に間違われてしまう。大きすぎては相手を驚かせ、例えば生みたての卵を持っていたならびっくりして落としてしまうだろう。近くの木の幹を何度か叩いて、力の加減を確かめた。「近くまで寄ったから」も、相手に気取られず、あくまで自然でさりげないものになるよう繰り返しつぶやいた。そうまでしたにも関わらず、男がノックする音は自分でも驚くほど軽かった。男は思わず笑った。そしてもう一度ノックしようとしたところで、突然ドアが開いた。男はうわずった声で、「ち 近くまで寄ったから」と言った。女は「ふふ」と笑って、中へ男を招いた。
部屋へ入ると男は勧められるがまま木製の椅子に腰掛けた。椅子もテーブルも、シンプルな意匠だったが、何年も使われていて良い風合いだった。女が台所で何かを始めた。男は部屋を一度だけ見回したが、壁の高い位置に開けられた小窓が気になり、小窓のことばかり考えていた。そこから差し込む光が女の背中を照らしていた。男は間をつなぐため、調度品のことを褒めることにした。特に今座っている椅子のことを。椅子は男にしっくりと馴染んだ。そのことを伝えると女は「そういうのを自画自賛っていうのよ」と笑った。
台所からマグカップを持って女が戻って来た。男はそれに口をつけた。温かいエッグノッグが男を落ち着かせた。「元気にしてた?」と女が聞き、男はうなずいた。女は微笑みながら自分の飲み物に何度も息を吹きかけた。「約束を覚えていてくれたわけじゃないみたいね」と女は言った。「ほら、その顔、やっぱり忘れてる。でも気にしてないから」女は再びマグカップにふうふうと息を吹きかけ、ようやく口に運んだ。
「さっきからあそこの小窓ばかり見ているのね。いいでしょ?河野くんが出て行ってから取り付けたの」
男は小窓から目線を外し、女の顔を見た。あんなに思い出せなかった顔も、今ではしっかり識別できている。そして、男はかつて目の前の女と一緒に暮らしたことがあることを思い出していた。女とは「友だち」ではなかった。
「河野くんが出て行ってから、私ずっと待ってたわ。5年間ずっと。でも約束の日にあなたは現れなかった。ああ忘れられたんだなって思ったの。あなたが寄越したのは、あなたが不在であるという不幸。」
「コウノトリが聞いて飽きれる。不幸の鳥じゃない。」
男は女が話している間だまってうつむいていた。約束の内容も、約束したことそれ自体も忘れていた。責められている。記憶にないがきっと自分が悪いのだろう。言葉が見つからなかった。
「ところで、河野君。その小箱は何?私へのプレゼント?」
男はそう聞かれて、おずおずとテーブルの上に小箱を差し出した。小箱は「クルル」とか「ポッ」とかいう小さな音を鳴らし、時折動いた。
女はそれに気がついたのかどうか、小箱のリボンに手をかけて、こう切り出した。
「あのね、私あなたがいなくなってから本当に鳥がいやになったの。あなたがいた時は、床に羽毛が散らばっていたでしょう?私それをほうきで集めながら幸せを感じていたのだけれど、あなたが去ってから何であんなことをしてたのかなって。私が茹でたパスタも一本一本細いくちばしですすっていたけれど、あれって味わうためにゆっくり食べていたんじゃなくて、そういう方法でしか食べられなかったのよね。私ね、鳥を見るとあの細い首をきゅっと締めてしまいたくなるの」
小箱の動きがぴたりと止まった。
「そろそろ薬が効いてきた頃かしら?眠くなってきたでしょ?」
男は、元来の鳥肌に加えてさらに鳥肌が増していくのを感じた。体に反して、先ほどから眠気が襲ってくる。自らの翼から羽を一枚抜いては、正気を保とうとした。椅子の下には、そこだけ雪が降ったかのように白い絨毯ができあがっている。
「冗談よ。いつもその自分で作った椅子に腰掛けてうとうとしてたのよ。お昼寝する習慣は変わらないのね」
男はそんなことは当然分かっていたさというように、再び飲み物に手をつけた。その時、コッコッという小さな音がした。女は席を立つと玄関の方へ向かって行き、扉を開けた。「どんぐりだったみたい。」と女は言った。
「たまにあるの。早く落ちちゃうのが。まだ季節じゃないのに不思議よね。」
男は自分の立てたノックの音を思い出して苦笑いをした。そして、今なら自信を持ってノックすることができると思った。男はかつて自分が作った椅子のせいもあったが、その部屋の居心地の良さに緊張がほどけ、身を委ね始めていた。女が言うようにもう昼寝の時間も近いようだ。
女は玄関から戻ると小箱を持ち上げて、背伸びをして小窓のところに置いた。「眠たかったらそのまま寝てしまっていいから」と言って振り返ると男がすでに寝息を立てていたので、女は「ふふ」と笑った。椅子に腰掛けマグカップを握りしめながら、女は男の寝顔をしばらく見つめた。テーブルの上には光の正方形が出来上がっている。少しずつ移動していくそれの輪郭を爪先でなぞったり、手のひらをかざしたりした。女は何気ないこの時間が10年ぶりに訪れた幸福なのだろうかと思った。そして大きく伸びをしてから全身を舌で舐め丁寧に毛繕いをした。
小窓の小箱が「ポッポッポ」と鳴いた。
時計はちょうど3時を指したところだ。
女は足音を立てずにそっと玄関へ向かった。
そして静かに、鍵をしめた。