ぽっかりと地面に空いた大きなくぼみは
雨が溜まった時にイノシシが体を洗うために使うものだろう
倒れ朽ちかけた木にはキツツキが開けた無数の穴が開いている
獣の通り道
猿たちが移動に使う丈夫な蔓
自らの領域を誇示するかのように
艶やかな色のきのこたちが群生している
見慣れない森の表情によって少年の好奇心はくすぐられ
当ても無く歩き続けたが
霧が深さを増しもう一歩も動くことができなくなった
少年は大きく一つ呼吸をし目をつぶった
あえかに聞こえる森の音
さざめき
足音
呼吸
多彩な音色が耳に届き
嗅覚を馥郁たる香りが刺激すると
少年の中で森が広がった
これまで生活してきた環境とは異なる場所に身を投じている
少年はそのことを改めて理解すると
いたずらに乱さぬようつとめることにした
目に頼らないことによって
図らずも少年の前に進むべき道が開けていった
声なのか匂いなのか
はたまたはそれは予感のようなものだったのか
自分の行く先が分かり
閉ざされた視界の中まっすぐ歩くことができる
あるいはそれは森が少年を受け入れたことを示していたのかもしれない
白い世界の中を少年は歩いた
音は自分の後ろに置き去りにされていくかのようだった
足の裏から伝わるのは大地よりさらに柔らかい感触
何かがしきりに周りを飛び回っている気配を感じる
空気が変わる
瞼に光を感じる
光は熱っぽくこれまで感じたことのない強さを持っていた
少年は立ち止まるとゆっくり目を開き始めた
光に慣れ辺りが次第に鮮明になる
置き去りにしてきた感覚が再び宿る
少年は目を見張った
空だった
透き通った青
燦然たる光
少年はもう一度目をつぶって
そしてゆっくりと開いた
おとぎ話の中でしか知らない空
これまでの何をもっても例えようのないその青さ
少年の目は頭上に丸く切り取られた空に釘付けになり
根を下ろした一本の木のように立ち尽くした
一体どのくらいそうしていただろう
少年の耳に心地よい音が触れた
風でもなく鳴き声でもない
連なる音色は歌のようだった
手にしていたバケツをその場に置き
惹き付けられるように音のする方に向かって歩いていくと
巨大な樹の幹が見えた
空にまで達するかと思われるようなその樹の麓に人の姿があった
金属の棒のようなものを口にあてがい
その音色に合わせて周りを鳥のような羽のある生き物たちが舞っている
少年が歩み寄って行くと
気配を感じた生き物たちはさっと木の陰に姿を消した
金属の棒を手にしているのは20歳前後の青年だった
少年が現れたことに驚いた表情を見せることもなく
ちらりと少年の方を見てそれから空を見上げた
少年も再び空を仰いだ
そうやって二人はしばらく空を見つめた
もし迷ったのなら出口まで送ろうか
そう言う青年の申し出に少年はかぶりを振った
青年はその場に座りこむと再び金属の棒を口にあて音を鳴らした
途端に少年の耳元で淡い羽音が聞こえ始めた
半透明の透き通ったその生き物たちは旋回しながら
音に合わせて青年の周りを舞っていた
少年がその生き物に触れようと思わず手を伸ばしたとたん
音が止んだ
青年は今にも樹の陰に隠れようとする小さな存在たちに向かって
少年のことを指しながら「人間の友だち」と言った
そして少年の方に向き直ると
「彼らはコリオ 人間じゃない友だち」と言った
不思議な人だと思った
積極的に話しかけてくるわけでもない
けれども彼がまとっている空気には心地よさを感じる
村の大人たちとは全く違って見える
金属の棒の代わりに
木製の箱に植物の蔓が張られたものをかき鳴らしている時もあった
青年はそうやって日がな何かしらの音を奏でて過ごしていたが
少年は傍らでそれを眺めるだけで気持ちが和むのを感じた
母親以外の人間に初めて感じた温かさだった
そこではどれだけ経っても夜は訪れなかった
眠くもならないしおなかも空かない
少年は辺りを歩いてみることにした
空の見えている範囲は集落と同じくらい
中央には屹立する巨大な樹
その傍らに寄り添うように生えている一本の低木
空の見える範囲の外は濃い霧に覆われていて様子を窺い知ることはできない
少年は霧との境目を歩きながらその場所の輪郭をなぞった
そして時折手を差し出すと霧の冷たさを感じた
やがて自分の歩みがリズムを生んでいることに気がついた
樹の麓から聞こえる音に体が反応している
自らも音色を口ずさんでいる
円周の半分ほどに達した時
少年は音色が変わったことに気がついた
次第に弱々しくなる音色に少年は急いで樹の麓へ戻ったが
今しがた音が途切れたところだった
青年がうつむき佇んでいた
両の手に乗せられたコリオがたった今消えてなくなったところだった
出口まで送ろう
初めて出会った時と同じ台詞を青年は口にしたが
その響きには以前にはない重さが感じられた
少年は少しためらいながらも前と同じように首を横に振った
沈黙が続いた
少年は光が生んだ自分の影を見つめていた
見るともなく見ていたその影から目が離せない
何か言葉を発しようとしても上手くそれを伝えることができない
再び音が鳴り始めた
その旋律は物悲しく
亡くなったコリオに向けられているのが分かった
変わるはずのない空の青さがくすんでさえ見える
村の人たちは変わらず過ごしているのだろうか
最後に見た母親の背中を思うと涙が込み上げた
音色はやがて終息に向かい消失した
そして青年はおもむろに口を開いた
かつて世界があった
世界は広く美しくこの大きな樹を中心として数多くの生き物たちが住んでいた
大きな樹には世界の始まりからの記憶があった
コリオたちはその記憶を守るために人間が作った存在だという
コリオには口がない
子孫を残すこともできない
死ぬこともない
ただ役目を終えた時に消えていく
コリオの数が少しずつ減っているのは
もう守る必要が無くなりつつあるということ
世界は少しずつ終わりに近づいている
青年は初め3人でこの樹の麓にたどり着いたという
樹の持つ記憶に触れた1人は医者だった
目の前で失われていく悲しい生き物を救おうとあらゆる手を尽くしたが効果はなかった
自らの無力さと苦悩とで彼は自分を保つことができなくなった
彼は大樹の傍で悩みながらそのまま動かなくなり
ついに一本の木になってしまったという
樹の持つ記憶に触れた1人は動物と話せたのでコリオの声に耳を傾けた
彼は話せないはずのコリオたちの声を聞いたと言った
彼は歌を歌ってコリオを楽しませた
悲しい運命を背負った生き物たちの過ごす時間が少しでも豊かになるようにと
そしてその術を青年に教えた
樹の記憶の中にあった楽器と呼ばれる音の鳴る道具の作り方を青年に伝えた
だがやはり彼も失われていくものを止めることはできなかった
彼は外の世界にその方法を求め旅立ってしまった
最後に触れたのが青年だった
青年は二人よりもより深く樹の記憶に触れた
例えばそこに時の流れがないということ
例えば繰り返される人間の歴史
外界の様子
そして樹の記憶自体が失われつつあるということ
青年だけが残ることを選んだ
もの言わぬ木となった友人とコリオたちを残してはいけない
青年は待つことにした
友人がいつか帰ってくることを
青年の話を聞き少年も樹の記憶に触れようとした
しかし青年がそれを止めた
君まで背負う必要はないと
出口まで送ろうと青年が言った
静かな口調だったがこれまでにはない強い意思があった
少年は自分も森の外に出て何か方法を見つけたいと思った
そしてそこから出ることを願った
途端に
無数のコリオたちが少年を取り囲んだ
少年は空へと舞い上がり高く高く昇っていった
少年は飛んでいた
樹の先端を目指す
麓から音色が聞こえる
青年からフルートという名前だと教わった楽器の音色だ
さらに高く
さらに高く
樹の先端を越え
丸い光源を通り越し
空が近づいてきた
鮮やかな青で塗られたその天井の間際まで来ると
人が一人入れるくらいの穴がぽっかり空いた
穴は少年を飲み込み
その口を再び閉じた
一面灰色の空が広がっている
眼下には巨大な円蓋
それ以外はどの方角を向いても枯れた大地が地平線まで続いている
少年は近くに降りるとコリオたちに別れを告げ歩き始めた
そして足跡だけを残し
少年の姿は完全に見えなくなった
大樹の麓では
少年の旅立ちを見送った青年が演奏を終えたところだった
青年はおもむろに歩き出し
少年が初めて姿を現した場所
霧との境目まで歩いて行くと
古びたバケツとその中に履き古した靴を見つけた
青年は懐かしそうにそれを眺めた後
横になって目をつぶった