月はかわって11月、霜月。日本諸国にも出雲から神様たちがお戻りになっていることでしょう。
先月10月は神無月でした。八百万の神様たちが会議をするために出雲の国へお出でになってしまうため、そう呼ばれるようになったのは良く知られているところです。
今年2013年は、伊勢神宮でも大祭がありました。
20年に1度、正殿を始め御垣内などの社殿を造り替え、さらに殿内の御装束や神宝を新調して御神体を新宮へと遷す式年遷宮です。遷宮も10月初めでしたから、それから1ヶ月がたち大神さまも豊受さまも新居にお慣れになってきている頃ではないかと想像します。
日本には沢山の神様がいらっしゃいます。
成田空港に到着した飛行機を1歩出た瞬間、モワッとした湿気に包まれるのと同時に、神様の空気も同時に感じられるのは日本人だからなのでしょう。自分を取り巻く空間が北米のそれとは明らかに違うのを感じますし、実家へ帰り、仏壇を前に先祖の御霊へ帰国の報告をし、神棚にいらっしゃる神様たちに向かって同じく報告をするとフッと肩の荷がおりたような感覚にとらわれるのも、それが理由なのかも知れません。
日本の神の捉え方は、欧米やイスラム圏のそれとは違い独自で非常に寛容的です。
クリスマスやバレンタインを祝いながら、お盆とお正月にはお休みを頂き、初詣に詣でて御札を賜るのですから器用なものです。また、インドの神様や仏教の菩薩さまや弥勒さままでも神として御祭りしてしまうのは世界的に見ても稀なことなのではないでしょうか。
そんな日本人を総じて無信教(神教)だと言う人もいますが、キリストやアラーも日本人の感覚からすれば一柱(神様は一柱、二柱と数える)の神と認識できるのはこの国ならではであり、他の国の人が容易に出来ることではありません。
ただ、とりわけ流行り廃りの激しい日本では、閉じた関係を築くことは得意ですが、自分の知らないものとの関係を築く(に気付く)のが苦手なような気がしています。Facebook、LINEなどのSNSでの発言は友達以外の外へはほぼ漏れることはなく、さまざまな話題を楽しむことができます。でも、Face to Faceのコミュニケーションが苦手なのは、それは閉ざされていないオープンな関係だからでしょう。
江戸時代、士農工商の身分制度の中、侍のみが執政をしていた時代の日本では、侍以外の一般人が政治に参加するのは不可能でした。維新を成し遂げたのも侍です。維新がなったとき、農工商の民は劇的に生活を変えたわけでもなく、今まで通りの生活を閉じた世界(同じ身分の身内)で行なっていたように思います。現代日本人が、閉じていない外世界への関係構築を苦手とする原因はそこからなのでしょうか。
ここ数週間、メニュの記載が偽造されていた問題が話題になっていますが、生産者と加工者そして消費者が全く関わりを持たずに食品が流れているのを見ていると、間違ってはいないけれど正解でもないような気になってしまいます。関わりが全くない中でそれでも流通しているのですから、少し恐ろしくも感じます。
原発事故が深刻化した2年前。東京へ供給される電力が、そこから遠く離れた福島からやってきていたことを(初めて)知って、きっと都民は驚いたはずです。TVの中で進行している事故が、自分の家の電気と関係しているという事実。事故によって関係性が半ば強引に築かれてしまった訳ですが、何を思わなくとも当たり前に得ていたものが、自分の全く知らないところから来ていたと気づかされることほど怖いものはなかったでしょう。もし事故が起こっていなければ、現在も原発は人々の興味の範囲外で静かに稼動しているはずですし、脱原発などという文句が紙面を飾ることも無いままでしょう。
無関心は危険極まりない「行為」です。
その無関心から脱却する為に、開いた世界での関係を構築する為に、まずは神様との関係構築から始めてみるのも良いかも知れません。実際、行事に関しては器用に行なえている訳ですから。そして、出来ることならば、有名大社だけに詣でるのではなく地元の神様(土地の神様)を思うことから始めてみるのをお勧めします。
06/11/2013 Masa Nakao