「雨過天青雲破処」
当時、僕にはこの単語が漢字の羅列として目に入ってきました。それでも、日本人の僕には表意文字である漢字を読みとろうとする欲があるので「雨の過ぎ去った空の雲の切れ間」にある ー「何か」ー に思いを馳せる感じなどと、ちょっとばかり格好の良い意味としての訳を捻り出したのを覚えています。実際はというと「雨の過ぎ去った雲の間から見える空の色」という意味で、「うかてんせいくもやぶれるところ」と読まれます。この雨過天青雲破処の青色は、青磁器の世界で理想とされる最上の青色なのだそうです。青は海や湖・空の色などさまざま存在していますが、他でもないこの青色が好まれた理由も何となく判る気がします。それがきっかけで、自分はあろうことか写真の世界に足を踏み入れてしまいました。
空の色はさまざま。朝夕は紅く、夜は黒や灰色になって僕らの上に広がっていますが、たいていの場合は青い色をしています。でも、この青い色が曲者で、真夏の青と秋晴れの青では、その色味は全く違うものになります。日本の奥山で展開される冬の青空は特有の青い色をしていますが、里での同じ頃に浮かぶ青空は随分とみすぼらしい青をしているように感じたりします。中国の青空はくすんでいると言われますし、逆にカナダの青空はどこまで行っても青いのです。
また、季節や場所の変化に伴う青の変化とは違って、虹彩の色が違えば見えてくる青(以外の色もそうだろうけど)も変わってきます。キタノブルーが欧米人に受けた理由もそんなところにあるような気がしますし、ゴッホの絵画でみられる実際の色と明らかに違う配色は、実はゴッホが色弱だったからという説もあり、彼の見ていた空は違う青に見えていたのかも知れません。
そう考えると色は普遍的ではなく非常に曖昧です。もちろん、色は物体の光の反射の度合いによって決まるので、光がなければ色は発生しませんし特定できませんから納得できます。しかし、そこに自分の主観が入ってしまうと色の特定は更に難しいものになってしまいます。スキーやスノーボードなどをしている際、ゴーグルをかけた最初の内はゴーグルの色によって変な雪の色へ変わってしまったのに、ゴーグルを外すと今度は実際の白いはずの雪が変な色をしているという経験を、スキーやボードをやる人なら誰でも味わったことがあるはずです。
僕は空を撮るのが好きですが、その時々で空の色を忠実に再現したとしても、時間をおいて見返してみると思っていた色と全く違った色をしていることが多々あります。実際の色と、記憶に残っている色にズレが生じているのです。それは主観によるものでしょう。写真の中におさめられた青色が、記憶の中にある青色に勝てない理由がそこにあります。白黒写真がいつまで経っても色あせないのは、白と黒のトーンの中に自分の好きな青色を着色できるからでしょう。
つまり、記憶というのは主観によって随分と影響を受けるともいえるのです。辛く悲しい経験も、数年立つと笑い話に出来るようになるのは、そのためでしょう。いつまで経っても「あのときの青空」が、その時の最高の青色として記憶の中から引き出されてくるのは、主観の嬉しい誤作動と言えるかも知れません。
今日、僕は6年目を過ごしたカナダを去り、日本に帰っている途中です。この年月の中で得られた思い出は、自身の主観に寄らずとも最高に楽しく豊かなものでした。飛行機の中から窓の外に広がる冷たい世界を見、どんな青のトーンを見ているのか。国が変われば空の色も変わりますが、秋という彩色に溢れた季節を青と共に堪能できる幸せを感じながら西へと進んでいることでしょう。
次回から11月末までの更新は日本から。土地の違いで自分の感じる部分がどう変化するのか、1週間後が楽しみです。
30/10/2013 Masa Nakao