自動ドアを抜けると
男はようやく生きた心地がした
スーツにネクタイで歩くこと
それだけで男にとっては大仕事だった
かばんはすでにぬめり気を帯び始めていた
額の汗をぬぐって一息つき
それからいつものように窓口へ向かった
男の姿をみとめた女が受付でほほえんでいる
「いらっしゃいませ」
かばんから振込用紙を取り出すと男は受付に差し出した
「振込ですね
少々お待ちください」
女は用紙を受け取るとそのまま処理係に回した
「外暑かったんじゃないですか?」
誰に対してもそうなのか
男を担当しているその女は
手続きが終わるまで毎回そんな風に世間話を始めた
男はあいまいにうなずいた
「こう暑いと本当に生きぐされになってしまいますね」
男はそう言われて気づかれぬようさりげなく自分の体の匂いをかいだ
匂いはしなかったが
かばんの外側から中にあるものを確かめた
女が続けた
「ところでもしかして出世なさったのかしら?」
男が言った
「私が出世しないことはてっきりご存知かと思っていましたが・・・」
「もちろん存じてますとも
ですがご依頼主様の役職が変わっていたものですからてっきり・・・
いえいつも一生懸命な様子なので
もしかしてと思いまして・・・」
男に出世の見込みはなかった
同期にはただそう生まれついただけで出世している者が何人もいたが
妬みや悔しさといった感情はなかった
「それにしても今日は本当に暑いですね
この季節には珍しく真夏日だそうですよ
せっかく冬用の装いにしたばかりだというのに・・・
こう暑いと顔が火照って鮭みたいになってしまうでしょう?
だから今日は私ファンデーションがいつもより濃いんです」
女はそう冗談めかして言ったが
男は愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった
男の知っている鮭の肌は銀色だった
何故火照った顔を鮭に例えたのか
いやむしろ鮭の銀色の肌の下に赤い身が潜んでいることを何故彼女が知っているのか
それを考えると冷や汗が出た
女はその男の表情に気がつき
もう少々かかるので掛けてお待ちくださいと慌てて言った
男はソファに掛けながら女が言ったことを反芻していた
女についばまれている鮭の顔が浮かび
締め付けられるような思いがした
それは以前取引先で相手を怒らせ全身に酢をかけられた時の感覚によく似ていた
生臭い汗が全身に吹き出し
顔はより一層青ざめていた
「・・・サバさん・・・振込でお待ちの鯖男さん」
女が遠くで呼んでいた
「振込の手続きが完了しました」
女はそう言うと長いくちばしに領収書を挟んで男の方を向いた
男はそれを受け取り軽く頭を下げるとその場を後にした
背中に女の「ありがとうございました」を聞きながら
出口に向かって歩みながら受付の女のことを考えていた
白い羽毛や黄色く鋭いくちばしのことを
それから机の下にあるであろう華奢な足とその先のかぎ爪を
それは恐怖であるとともに
また甘美でもあった
女についばまれている自分の姿を必死に頭から追いやろうとした
自動ドアを抜けると
男はようやく生きた心地がした
かばんの中からおもむろに制汗スプレーを取り出して振ると
男は再び太陽の下へと歩き出した