僕はいつもより早い時間にトーストを焼き、恋人はカフェ“ラテ”を淹れていた。小さいクモの「タジマさん」の姿はここしばらく見ていない。ぐっと寒くなってきているから、どこか薄暗い隙間の奥でじっとしているのだろう。「タジマさん」がそうしてくれていることは「タジマさん」にとっても、僕らにとっても都合がよかった。というのも、恋人はクモに限らずムシの類いが得意ではなかったからだ。もし、「タジマさん」が不用意に部屋の中をウロウロしてしまっていたら、恋人はそのたびにドタバタと騒ぐだろうし、場合によってはひとおもいにプチっと潰してしまうかもしれないと思うほどだった。
トーストが焼きあがるまでの3分間、結露した窓を指でするすると滑らせながら「タジマさん」の存在を恋人に明かそうかどうか考えていた。招かれざる同居虫について今は知らない方が幸せなのではないか?とか。全く知らずに出会った時どういう顔をするだろう?とか。恋人をおもう気持ちと好奇心とが混ざりあってはいたが、最終的に彼らが活発に活動を始めるころまで黙っておくことにした。そして、恋人が「タジマさん」と遭遇したときの表情を思い浮かべながら、独り言とも会話とも言えないような口ぶりで、冷たい雨が降る話をした。
恋人はときおり「へー。」とか、「ふーん。」と聞いているそぶりをみせるけれど、手に入れたばかりの鈍く光るエスプレッソメーカーが、静かにコーヒーを抽出している様子をうっとりしながら眺めていた。僕は話をしながら別のことを考えていたし、恋人は返事をしながら別のことに集中していた。
それぞれの思考と会話。
均衡のとれた4つのアンバランスさがどこか可笑しかった。
この日は恋人の荷物を「前の家」から引き上げる日で、 早朝から都内をぬけて、そのまた隣の県まで走ることになっていた。見たことも、行ったこともないその家は僕にとって少し特別で、そこに行くことも、そこから荷物を運び出すことにも緊張と躊躇を伴った。ただ、その先にある確かなものを手に入れるためには必要なことだったし、心構えで例えるなら知らない国の裏路地や、どんな生き物がいるかわからないジャングルに入っていくというような感じに近かった。普段姿を見ないと思い出さない「タジマさん」のことを考えていたのも、緊張や躊躇に自分が飲み込まれているということを、恋人ではない誰かと共有したかったからかもしれない。と今になって思うのだ。
そんなことを考えているとも知らない恋人は、荷物を積み終えたあと羽織っていたコートをスパン!とはたいて、埃と一緒に僕の緊張や躊躇を払い落としたようだった。そしてニコニコしながら2度目の朝食をとることを提案した。
雨は強まりも、弱まりもせず、降り続いていて、暖房の音だけがいつもよりもゴウゴウと大きな音を立てていた。恋人が払い落としても、「タジマさん」のことを考えても、うっすらと残っていた緊張と躊躇は少し冷めたカフェラテと一緒に飲み込んだ。