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2F/当番ノート

歌舞音曲のできること

当番ノート 第15期

その日は新宿御苑の事務所にこもっていたところ、野暮用でついと外に出て、また事務所に戻る途中、花園小学校の脇で地震に遭遇しました。
横を走っていた車がぐにゃりとハンドルを切って停車し、おやと思った瞬間に電信柱が風になびくススキのように揺れ、往来を歩いていた人びとが一斉に目の前の花園小学校の校庭になだれ込んでいきました。校庭から見ず知らずの人々と肩を寄せ合いながら眺めていた、コンニャクのごとく揺れるビル群を忘れはしません。

早々に帰宅を諦め、たまたま近くまで出てきていた妹と合流し、余震に揺さぶられる大型マンションの中の事務所で、暖をとるための梱包材にくるまりながら、NHKのUstream配信を一晩中見続けていました。モニターの向こうに展開する、映画の中だけのことと思っていた光景を、ただ見つめ続けるほかありませんでした。

レッスンは8日後から再開しました。誰が来なくても開き続けるつもりでした。
当面フラフープなんぞ売れやしないと腹をくくって、フープの代わりに昔作っていたTシャツの在庫をチャリティーとして売って、赤十字に寄付していました。(あたまわるいWEB http://atamawarui.jugem.jp/
あの当時は、何かに捕らわれまいと、動き続けずにはおられませんでした。そういう人は少なくなかったことでしょう。
そして一月後、桜の下で、日々を紡ぐことを歌った歌を選んで、踊りました。

生きている限り日々は続き、その中でおのおのができることを重ねていくだけ。
被災地に飛んでいく人もいれば、南の島や海外に移る人もいて、そしてびっくりするくらい他人事の人もいました(震災の数日後、関西の方とお電話をした時にはその温度差に唖然としました。しかしながらそういうことはごく当たり前のように繰り返されてきたのでしょう)。
わたしといえばフラフープ教室の先生とにわかTシャツ売りとをじりじりした思いで兼業し、歌舞音曲という本来の持ち分野で実際に被災地に赴くことができたのは、3月11日からふた月近くが過ぎたゴールデンウィークのことでした。

初めての被災地は宮城県名取市。津波で壊滅的被害にあったゆりあげ地区から避難してきた子供たちと、ショウの後ずっと、日暮れてなお、わたしの体力が尽きるまでフラフープに興じました。
それから本アパートメントの8期入居者であり現管理人である鈴木悠平くんを訪ねて石巻、そして福島県南相馬市と、間をあけて足を運びました。
(思い返していて、震災直後は子供だけしかフラフープ遊びに加わらなかったのが、時が経つにつれ大人の方も徐々に輪に交わるようになっていったなあと、ふと気づきました。)

子供たちが元気に跳ね回る。誰かが笑う。笑い声が満ちる。
人間はやくたいもないことで笑い、楽しみを作り出すことができる。
エンターテインメントは、今日を生きて明日に向かう力になる。

フラフープ束を担いで行き、荷物を空っぽにして戻ってくるたびに、その思いを強くしました。
いや、思い知らされて帰ってきました。

下の動画は今年5月、東京・青山円形劇場にてご一緒させていただいた、白崎映美&とうほぐまづりオールスターズLIVE映像の一部です。(元上々颱風ヴォーカルの白崎さんは山形県酒田市のご出身です)

わたしのできることなど何ほどのものでもありません。
ひとりひとりがなせることはあまりにも些少で、だからこそ多くの人が長い期間に亘って関わっていくことが必要とされるのだと思っています。

ルーツは持たねども、東北の食や風土や芸能を好み、住まう友人知人もいる、関東で生まれ育ち関東で日々の糧を得ているわたしが、歌舞音曲を通じてできることを、これからも細く長く、ずっと。

AYUMI

AYUMI

フープダンサー/インストラクター。フープ東京代表。
東京を活動の拠点に全国津々浦々でフラフープを回したり教えたりしながら、「ボールはともだち」よろしく円とともに喜んだり時に円を投げ捨てたり。世界初のフラフープのモーションキャプチャーモデルや、フラフープマンの中のひとや、フラフープ妖怪になったり。2014年の目標は「フープを祭礼に持ち込む」。新興のカルチャーを普及させる過程に当事者として立ち会い中。

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