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2F/当番ノート

ツバメ町ガイドブック PAGE3 「白昼夢調香師」

当番ノート 第16期

白昼夢調香師

 世界の片隅の扉の向こうに、その町があり、その香りがある。

 ”白昼夢調香師”

 住所:ツバメ町 K地区 鈴の小路

 店主はこう語る———
「香水の香りというのは、白昼夢に似ています。夢か現か、立ちのぼっては消えていく。記録にとどめておくことも、他人への正確な伝達もできず、擬音で表現することもほとんど不可能。今その瞬間の、その人の感覚においてのみ存在する。その当人の感覚内においてすら、とどまることなく、めまぐるしく印象を変え———。お客さんも、白昼夢、見ていきます?」
 細身の瀟洒な乳白色の香水瓶には、小花の図柄のラベルが小さく貼ってある。瓶の首の部分には細いリボンが巻かれ、そこに紙片が結び付けられており、その紙片に書かれているのはこの香水の使い方だ。一般的には香水は、その香りの濃度や種類、つけていく場所のTPOに応じて、耳の後ろや手首や腰、膝の後ろにつけるものだが、この白昼夢香水は違う。
『白昼夢といえど、夢は夢。瓶の蓋をそっと開けたら、眠るごとく目を閉じ、そっと瓶に鼻を近づけて匂いを嗅いで、いざ白昼夢の境界の向こうへ、行ってらっしゃいませ』
 紙片の簡潔な説明書きに従い、目を閉じて白昼夢香水の香りを嗅いだ瞬間、現実は遥か後方へ流れ去る。

 店主の前置きの通り、香りの正確な情報を伝達するのは困難を極める上に、これが白昼夢であるとすれば、もしかすると同じ香水を嗅いでも、みることのできる夢は個々人により全く異なるのかもしれない。よって、それがどんな香りかを知りたければこの店を訪れて直接体験してもらうしかないのだが、この秘密の町の番人たるツバメ扉に通行を許可される人ばかりとも限らない。説明を試みるために白昼夢香水の香りをあえて一言に集約するならば、意識の階層を引き上げられるような香りだといえる。
 それは決して、未知の香りというわけではない。絡み合った香りを分解すれば、芳醇な花々のフローラル、きりりと瑞々しい柑橘類のシトラス、甘い甘いお菓子のグルマン、小川のせせらぎや大海やそよ風を思わせるオゾン、滴るような蠱惑的なムスクなど、”外”の香水と同じ要素から成る。ただしこの白昼夢香水の香りはほとんど可視化レベルで、その花や風やお菓子の生まれた場所を、嗅いでいるだけで追体験できる。自分の記憶にある場所もない場所も、ツバメ扉の内も外も関係なく、今ここにいる自分自身が地上のあらゆる地点を、猛スピードで駆け巡っているような、透明な気球でふわふわと漂っているような、ひとすじの髪ほどに細く柔らかい風となって地表の果物や花びらや水面を撫でているような———それは一瞬の幻か、それとも長い長い真昼の夢か。
 香りというものの生きる場所が空気中であるとすれば、香りはどこまでもどこまでも限りなく稀薄になりながら地上のいたるところに広がっていき、すなわち香りは地上の空気のあるところ全てを知っているのかもしれない。この瓶に詰まっている白昼夢は、香りによる、地上の記憶だ。”外”の人間の大多数を阻むツバメ扉の存在も、空気にとっては障壁たり得ない。

 あまりにも膨大な量の記憶は人間の脳では処理しきれないらしく、店主によれば、この香水を嗅いでいる最中、目眩を起こす者が少なくないのだとか。取材を終え、香りによる目眩にくらくらと酔っぱらいのごとく千鳥足になりながら目を開くと、ひと嗅ぎしただけなのに、なぜか瓶の中は飲み干したかのように空っぽになっている。
「白昼の酩酊は、いかがでしたか。またのお越しをお待ちしております」
 酩酊。なるほど、香水に用いられる溶剤はアルコールである。

 次号 ツバメ町ガイドブック PAGE4 「事実事典氏」

夏見 ホネカ

夏見 ホネカ

影に色を塗るような気持ちの小説たち。
「ツバメ町」第1巻、2014年度中に書籍化予定。

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