世界の片隅の扉の向こうに、その町があり、その事象がある。
”事実事典氏”
住所:ツバメ町 G地区 繭の小路
彼はこう語る———
「なにしろ、ツバメ町には創作的なことをできる人間は、極めて少ない。ツバメ町の人間にできるのは、消えない虹を作ったり、過去に読んだ本にまつわる記憶を消してもう一度その物語から新鮮な感動を得られるようにしたり、そんなことだからね。小説や歌や絵画は、この町では輝く宝石よりも稀少で、価値があるんだよ。その点、事典は、この町の人間である僕にも書ける。なにしろ全てが事実だから。事実の羅列。事実の列挙。目の前にある事象を書くだけだから、新聞や、回覧板や、落とし物のお知らせと、そう変わらない」
ツバメ町にはこれまでのページで前述してきたような、なんらかの「商品」なるものを扱い「店」という体裁で何かを行っている住人が多いが、”事実事典氏”である彼はそれらとはやや趣を異にする。そういった住人もまた町には一定数存在していて、彼らのそれは職種としては専門職や研究者というものに近いだろう。もっとも、商品を取り扱う店であっても金銭のやり取りや授受は発生しない町なので、儲けのために職種を選ぶということは基本的になく、おおむね誰もが自分の興味あることに打ち込むため、究めるために、やりたい店や研究を行っている様子が見て取れる。
今回紹介する彼が興味があるのは、彼の言葉で事実を述べること、身辺の事象を何もかも彼の言葉で解説した事典を作ることであるという。メモ用紙や包み紙の裏や羊皮紙や封筒、あらゆる紙に書き溜めた事典は、束ねると厚み数十センチにも及ぶ。ツバメ町の住人たる彼がツバメ町の中で見聞きするあらゆるものについて書き綴ったそれは、ある意味究極のツバメ町ガイドブックだろう。許可を得て、事典からここに一部抜粋し、註を付記する。
【名前】 親しい人だけが知っている、秘密の暗号のようなもの。 *註1
【年齢】 肉体においては、停止するもの。よって、数えることが無意味。 *註2
註1 … この町では本名は親しくない相手にはあまり明かさず、相手の店の名前や職種、屋号で呼び合う慣習がある。そのため、本名を知っているか否かは親密さのバロメーターとなり得る。
註2 … ツバメ町に住む人間は各々、異なるタイミングで肉体の成長・老化が停止する。死に至るまで肉体の老化が進行しないために、ツバメ町での死因に老衰は存在しない。よって、外見年齢と実年齢が一致しないこともままある。
ツバメ町に永住するつもりでこのガイドブックを読んでいるのでない限り、旅人にはあまり関係のないことなのでこの項ではあまりその説明に多くの行数は割かないが、これらはこの町における基本的な「事実」———あるいはルール———だ。
九日間の滞在での取材では、詳細な情報を集めることは難しかったので、これらも断片的な事実に過ぎない。しかし当然、こういった事実を一切知らなくとも、この町で過ごすことは可能だ。町の人々はおおむね親切で、”外”の人間に対し好意的だし、中にはごく例外的に、”外”で生まれ育ったのちこの町に引っ越してきて住み着いている人もいるという。なので、恐れることはない。生まれたばかりの赤子が、あるいは貴方が、地球の裏側の事実など見たことがなくとも、事実など知らなくても、地球は変わらず(恐らくは)球体で、裏側も(恐らくは)確かに存在するように。そうやって揺らがないものが事実であるならば、この”事実事典氏”は揺らがないものをかき集めて自己を確立しているようだ。
「世界の事象をかき集めれば、結果的に、世界の複製がそこに出来上がると思ってるんだ。例えば僕の辞書の中じゃ、ミルクの定義は、こう」
【ミルク】
1.チョコレートチップクッキー、バタートースト、蒸しチーズパンの順に、相性のいい飲み物。
2.また、僕の大切な女の子の、うなじの色。少なからず僕をどきりとさせるもの。
それは”外”の百科事典のようなものに比べると、随分と個人的な事実であり、主観が大いに混ざっているものだ。本人も、こう呟いた。
「でも、最近、思うんだ。僕にとっての事実、僕が事実だと受け止め、事実だと認知し定義づけている森羅万象———それって、もしかして、僕の存在の全てをかけた創作じゃないのかなって。それは僕だけじゃなく、貴方も、誰でも、皆、日々絶えず行っている創作なのかもしれないね」
事典の紙の束を抱える”事実事典氏”が恋をしているということは【ミルク】の項により明らかにされたので、では【ラブレター】のページには何が書かれているのかを見せてもらった。
【ラブレター】 今夜二十一時 迎えに行く
不意に強い風が吹いて、その一枚がどこか飛ばされていった。
次号 ツバメ町ガイドブック PAGE5 「雨粒砂絵画廊」