世界の片隅の扉の向こうに、その町があり、そのサーカス団がある。
”ひよこを導くサーカス団”
住所:ツバメ町 W地区 蜜の小路
サーカス団長はこう語る———
「ひよこがニワトリになる瞬間を、知っているかね」
そう問われ、イエスと答えられる客は1パーセントにも満たないのだという。
1. 人間の赤ん坊の手足がじわじわと大きくなっていくみたいに、なんとなくいつの間にか成長している。
2. 満月の光を浴びると狼人間が狼になるがごとく、一夜にして変身する。
3. 朝、コケコッコーと高らかに鳴いて世界を起こすべき時間までに早起きできるほどの一人前になったら。
提出した三つの回答は、いずれもハズレだった。養鶏場を営む人であれば正解を知っているのだろうか? これはなかなかの難問といえよう。どことなく哲学的な香りすらする、あるいは禅問答だ。
さて、それでは、ひよこがニワトリになる瞬間とは?
そのサーカスは、夜、しめやかに開催される。
公衆電話ボックスほどの大きさの、円錐形のテント。赤と白の縞模様に塗り分けられ、てっぺんにはアルミホイルで作ったようなチープな星の飾りがあり、垂れ幕にはただ一言、「ひよこを導くサーカス団」。
なにしろテント自体が小さいので、中に入ることは出来ない。ただ、テントの上部に煙突のように突き出た覗き穴と望遠レンズが取り付けられていて、人間の客はそこから立ち見することになる。望遠鏡型のサーカスといえば分かりやすいだろうか。中の客席を埋め尽くすのは、いずれも小鳥たちだ。スズメ、シジュウカラ、エナガ、キセキレイ、メジロ、ルリビタキ……。彼らは一様に、両の翼を打ち合わせ、拍手の真似事をしている。
舞台に立つのは、ひよこが二羽。いずれも黄色いふくふくの羽毛に包まれた、見慣れた愛らしい、いたって普通のひよこ達。ひよこの表情は、望遠レンズをもってしても読み取ることは不可能だ。緊張しているのか、平然としているのか、人間の目からは無表情としかうつらない。二羽のひよこはステージの左右に分かれて歩き出し、舞台裏に一度姿を消した。
待つこと数十秒、不意に、サーカスのテントの右端と左端から、二つのブランコに乗ったひよこ達が颯爽と、ブランコごと地上目指して急降下した。二つのブランコは空中ですれ違い、その瞬間ひよこ達はブランコから自ら飛び立ち、全身を重力まみれの宙空へ委ねる。
ひよこ達には人間の空中ブランコ乗りのようにはいかない。なにしろ、伸ばして掴まる手がない。このままではひよこ達は地上へ真っ逆さま、大惨事だ———と観客たちはひやりとする(客席の小鳥たちは一斉に翼で目を覆った)。
瞬間、空中のひよこは、ぐん、と羽ばたく。黄色く小さかった筈の羽根が白く大きく、ばさりと伸び、本来は飛翔用には出来ていないその羽根はわずかながらも空気を掻き、『飛んだ』。無情に向こう岸へ遠ざかりつつあるブランコに、二羽のひよこ達は———いや、一瞬のうちに全身を白い羽毛に覆われ、尾羽も伸び、錐のような鋭い目つきを身につけたニワトリへと成長した彼らは———無事、飛び乗った。
観客の小鳥たちは声を揃えずそれぞれの鳴き声で快哉と喝采を叫ぶ。
純白の鳥となったニワトリ達は空中ブランコが向こう岸へ届くと同時に素早く台へ飛び移り、誇らしげに両の翼を広げて優雅に一礼する。喝采は一段と大きくなり、サーカスは狂乱の様相を見せるが、まだ足りないものがある。
壇上に降りてきた二羽の前に、緑色の派手なチョッキを身につけた灰色の大きなネズミが、玉乗りをしながら現れる。時々わざと大きくよろけてみせたりするあたり、観客の目と心を引きつけるコツを心得ているようだ。自主的にやっているのか、それとも燕尾服にシルクハット、モノクル眼鏡姿のあのサーカス団長に仕込まれた技なのかは定かではない。
玉乗りネズミは並んで立っている二羽のニワトリの前で器用に停止すると、ポケットから二つの赤く丸い物を取り出した。ピエロの鼻かと思われたそれを、ネズミが形を綺麗に整え、ギザギザ尖る山形にする。ニワトリ達が恭しく跪くと、それまでの熱狂が嘘のように客席が静まり返る。ネズミが赤い”それ”を捧げ持ち———まるで戴冠式だ———ニワトリの頭に、そっと乗せる。
ニワトリが首を天に向け、不敵に伸ばす。頭には燦然と輝く、赤いとさか。それこそがニワトリのシンボル。観客達の拍手、拍手、拍手……。
翌朝、ツバメ町の住民達を起こすニワトリの鳴き声が、昨夜ひよこから成長したばかりの新人ニワトリによるもので、一段と張り切っているものであったことは、言うまでもないだろう。
次号 ツバメ町ガイドブック PAGE12 「マドモワゼル・サムシング・フォー」