世界の片隅の扉の向こうに、その町があり、その三叉路がある。
”ある化け猫”
住所:ツバメ町 L地区 卵の小路
ツバメ町は、曲がり角だらけだ。複雑に折れ曲がった小路の数々は、幾重にも連なる角を成している。一つ手前の角を曲がるか、もう一つ先の角を曲がってみるか、左に折れるか右に折れるか、それで辿り着ける場所は全く違ってくるので、旅行者はくれぐれも留意されたし。
しかしながら”外”からの干渉や出入りの稀なツバメ町には、町内の地図がない。今回の取材でも、いよいよ地図を用意することは出来なかった。そのためこのガイドブックはガイドブックでありながら一切地図が載っていない、異色のガイドブックとなったことをお詫びしたい。
ごく端的に説明するならば、ツバメ町は大別するとA~Zの26ブロックから成り、そのブロック内の細かな小路全てに名が付いている。
例を挙げると、L地区には”卵の小路”なる道がある。昔から卵専門店がこの通りにあるのがその由来だというが、この道の先は、これまた小さな三叉路だ。そしてその三叉路の右と左、どちらを進むか迷った時、現れるのは三又に分かれた尾を持つ化け猫だという。今回の取材でも、実際にその化け猫に遭うことができた。
体毛は初雪を紡ぎ合わせたような純白。右目が銀色で、左目が金色。尻尾の先は根元から三つに分かれている。
周囲に人影が失せた逢魔が刻、静まり返った密やかな小路で化け猫はこう語る———
「ここで君にぼくが出逢ったということは、君はこの三叉路をどちらに進むか迷っているということかな。といっても、君の迷いを導くためにぼくがここに積極的に現れた、あるいはその使命を携えて誰かから遣わされてきた、なんて思われても困るのだけれどね。右に進めば叡智の杖が、左に進めば勇気の剣が、後ろに戻れば金銀財宝が……なんてこともあるわけがない。だからむしろ、何故ぼくがここを通るたび、いつも君のような迷い人に出逢うのかが不思議さ。ぼくは案内人でもなんでもないのに」
三つに分かれた彼の尻尾は、それぞれの道を指し示すかのように、ぴんと伸びたままで、それはフォークにも似ている。声はやや掠れており、中性的で、少し幼い。
大通りに出れば人々の話し声とざわめきはある、だがひとつ小路に入ればまるで異次元、それがツバメ町だ。辺りは静まり返り、野鳥の声ひとつなく、蜻蛉の姿ひとつなく、曲がり角の先がどうなっているのかも見えない閉塞的異空間の小路で、化け猫とともに佇むことになる。
「ぼくに宣託や予言を期待しても無駄だよ、だってどっちに行っても結局はツバメ町だからね。右に行けば焼き菓子の美味しいお店がある、左に行けば七百色の毛糸を揃えたお店がある。見える景色と見えない景色が、右と左でそれぞれ異なるだけ。とどのつまり、人生の岐路なんてものも全てそれと同じこと。そう思わない?」
ゆうらり、ゆうらり、化け猫は尻尾を微かに揺らす。
「目的地までの最短距離の道を選ぶ? 面白そうなお店のある道を選ぶ? 美しい生け垣の続く道を選ぶ? 君の自由だよ、好きにするといい。道は全て、ただの道だ。何かが待ち受けているわけじゃない。目を皿のようにしてよくよく見ていれば、どの道を行っても、君は必ず何かを見つけられる。重要なのはそこだよ。どこかの家から匂ってくるクリームシチューの香りを。木の洞に隠れている、リスが中途半端に蓄えているどんぐりを。道に白いチョークで描かれた、子供たちの『けんけんぱ』の遊びの名残りを。なんでもいい、何かを見つけるんだ。今夜君が眠りに就く前、今日一日を思い出してつける日記に書けるような何かを。いいかい、くれぐれも忘れちゃ駄目だよ。右も左も、きっと何も変わらない。ぼくの三本の尻尾に、A、B、Cとそれぞれ名付けたところで、実質的にぼくの尻尾はぼくの尻尾でしかないのと同じようにね。どの道を選ぶのかが個性なんじゃない、選んだ道で何を見つけるかが個性なのさ。———さあ、どの道に行くか決まった? なんとなく選んだ道でも、目をようく開いているのだけは忘れないで。それじゃあ、またね。……ん? ぼくが何者か? なぜツバメ町に化け猫がいるのか? それは、もし君がいつかまたツバメ町に来るようなことがあったら、きっとまた別の誰かの口から、それを語られる日が来るよ。とにかくそれまで、覚えていてほしい。どの道を選んだかじゃない、その道で、君が、何を見、何を感じたか。その目で、耳で、心で、何を拾ったか。道の先に物語はない。君が心で拾ったものにだけ、君しか知らない物語が出来上がるから」
次号 ツバメ町ガイドブック THE LAST PAGE「宵闇収集屋」