世界の片隅の扉の向こうに、その町があり、その箱がある。
”ココロ・ファーストエイド・キット・ボックス”
住所:ツバメ町 R地区 楓の小路
店主はこう語る———
「どんな心も、傷を、あるいは病を負っておる。柔らかい心にある引っかき傷、固い心にあるひび割れ、とにかく生きとし生けるもの、皆傷ついている。私は別段悲観論者じゃないけれどね、それでも認めざるをえないだろう?『全ての心は、傷を追っている』」
そう重々しく語る老人は店舗をもたず、ただ一つの箱を携えて街角に立っている。
箱は一見すると救急箱によく似ているけれど、箱の表面には何も描かれていない。よく磨きこまれた、木のボックス。
「これは、ココロ・ファーストエイド・キット・ボックス。傷を負ったそれぞれのココロにその時必要なものが出てくるんだよ」
開けてみるかね、と促される。とりたてて傷心というわけでもない(つもりの)状態で開けると、この箱は一体何を与えてくれるのか……。半ば福引に近い。
差し出された軽い箱の蓋の留め金を外し、蓋を開くと、中にはこぶりな茶色いボトルが一本転がっていた。
「ははあ。君は心の生活習慣病だな。まあ安心したまえ、この程度の処置で済むなら軽傷だ」
なんでも、これは消毒液なのだとか。まるで冷蔵庫から取り出したばかりのようにキンキンに冷えていて、いかにも効きそうだ。
「君、嘘をいくつかついただろう」
店主は図星をつく。恥ずかしながら、ツバメ町を訪れる数日前、プライベートで嘘をいくつかついている。
「まあ、仕方ない。嘘を全くつかずに生活できるかというと、それもなかなか難しい。だから嘘は生活習慣病だな。ところで、よく言うだろう、『嘘は心の精神衛生上悪い』と。心の精神衛生とはどういうことかと言うと、すなわち、心にバイ菌が付着するんだな。バイ菌に蝕まれた心は、風邪をひきやすくなる。風邪は万病のもとだ。さあ、ここまできたら分かるだろう。嘘をつくのが心にとってどれだけリスキーなことか」
膿んだ傷口のように、じゅくじゅくと、自分のついた嘘の記憶を持つ心が生々しい疼きを主張する。
「さあ、飲むんだよ、それを」
不思議の国へ迷い込んだアリスの手にした小瓶は、「DRINK ME!」と命じた。状況としては、それとさほど変わらない。
レモングラスと胡椒を混ぜ合わせたような香りのするそれを目をつぶって一気に飲み干すと、あの疼きは殺菌され、鎮静化する。
「成功だな。今回は消毒液だったが、このココロ・ファーストエイド・キット・ボックスを開く者の心の状態によっては、心の傷が沁みないようにする絆創膏や、心の歪んだ患部を矯正する包帯や、泣きたくても上手に泣けない者のための目薬が出てきたり———。とにかく誰も彼も、処置を必要とするような心をしている。気をつけたまえ。応急処置はあくまで応急処置。健康な心を失いつつあると思ったら、まず自分でそっと胸に手を当ててみるんだ。なぜ心が傷ついているのか? 自問自答しつつ、同時に”手当て”もできるからな。忘れるな。心はすぐに傷つく。だが時として肉体の怪我よりも早い修復も可能だ。くれぐれも大事にしろ。最悪、どうしようもない腫瘍と化した心の一部を摘出するメスが出てこないように———」
それは首を切れとハートの女王から命令の下ったアリスと、どちらが恐ろしい境遇なのか?
あいにく、不思議の国のアリスの物語自体伝わっていないだろうこの町では、老人にそれを尋ねるわけにはいかなかった。
次号 ツバメ町ガイドブック PAGE10 「うさぎの耳飾り屋」