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2F/当番ノート

嘘つきの本懐

当番ノート 第33期

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僕は嘘つきだ。

大層な嘘ではなく、しょうもないことを小さな嘘で繕ってしまう癖は昔からあって、そいつは痛いほどに自覚している。
もしかしたら多かれ少なかれそういう部分はみんな持っているのかもしれないけれど、僕はそれがすごく嫌いだ。
冷静に考えれば、嘘をついてしまったことにメリットは勿論なく、後々に対するマイナスの要素しか持っていない。
今ここに文章を認めている冷静な僕から言わせれば完全なる愚行に他ならないのだけれど、
その場を切り抜けるため、場当たり的に、反射的に、ついつい僕はこんな行いをしてしまっていたのだろう。

要はカッコつけなのである。
特にカッコいいわけでもないのに、カッコつける必要性もないというのに、
(むしろ岩男さんは可愛いキャラで売っていきたい)
自分の変な理屈の中で「カッコ悪い」とカテゴライズされたところに自分のポジションを置くまいと、その時は必死なのだ。
結局のところ、そんな薄っぺらい嘘なんて誰しもがお見通しで、そういうやつなんだなと思われる。
僕の評価は地の底へ墜落する。
・・・文字にして書き起こしてみると、なんと滑稽なのだろうか。
もう本当笑っちゃいます。風見しんごくらい笑っちゃいます。(伝わるだろうか)

そういう愚行を発動してしまった日は、僕は自分に対して深く失望してしまう。
心は地の底へ墜落する。
何をそんなにカッコつけているの?
お前は何様なの?
何をそんなに隠しておきたいの?
そうやって自分を責めてしまう。
僕の最大の敵、負のスパイラルなのだ。

この悪癖に対抗する糸口を僕は写真から発見した。
写真というのは基本的に正直者だと思う。
写真はそこにあるそのものを写してしまう。
それはとても残酷なことなのかもしれない。
だけど、僕は写真にだけは絶対に嘘をつかないと心に決めた。
それはある意味で、僕が表現することのできる世界の方向性を閉ざしている行為なのかもしれないけれど、
自分が誠実に取り組むことのできるところから、写真を逸脱させないことを心に誓おうと思ったのだ。
僕は僕に誠実になるために、写真をある意味でカウンセリングの材料に使っていると言うことが言えるかもしれない。
このカウンセリングを続けている限り、僕は僕のことをある程度ちゃんと愛してやれると思う。

加齢のせいなのか、カウンセリングの効果なのか、僕はここ最近直情的になったのではないかと思う。
僕の20代はきっと「嘘つき」の悪癖に支配されて、本心をさらけ出すことができなかった。
本来であれば、僕の中から湧き上がる意思や意見というのは、周りの人間とあまり一致しない。
子供の頃から周りが導き出す結論に対して合点がいかないことが多かった。
それは僕の知識や見識がおかしいのかもしれないし、時には僕の方が正しかったかもしれない。
問題はそれを僕はほぼほぼ全て押し殺していたということだ。
だからなのか、きっと僕は20代の頃、変に達観した雰囲気があったと思う。
経験に基づく達観ではない、それは偽造された達観だった。
「ここ最近直情的になったのではないか」と評したのは、きっとその長い病気からやっとの事で
解放されてきているのではないかという感覚を得たということなのだ。

LINKIN PARKのボーカリストであるチェスター・ベニントンが亡くなった。死因は自殺。
朝起きて、ツイッターを開いて一発目に飛び込んできたニュースとその死因に、打ちのめされた。
僕にとっては、青春時代に「HYBRID THEORY」で頭を揺さぶられてから、
新譜の発表のたびに一喜一憂するということを、この歳になるまで続けてきた数少ないバンドだ。
売れすぎたが為に揶揄されることも多かったバンドだったけれど、
その揶揄に乗っかって聴かなかったみたいなことをぬけぬけと抜かす馬鹿共に心の中で中指を立て続ける程度には愛していたバンドだ。
僕がこのバンドに心酔した一番の要因は、チェスター・ベニントンの異常な「声」だった。
それがもう聴けない、という悲しみと、その事実が「自殺」という形で実現してしまったことに深く深く打ちのめされた。
彼の中に渦巻いていた苦しみがどんなものだったか、それを知る術は僕にはない。
それがこんな結末を呼んでしまったということに、悲しみと怒りを感じた。
海の向こうの僕とは程遠い世界で生きている一人の人間の死に、僕はこんなにも動揺するのかと自分でもビックリしてしまった。
ツイッターのタイムラインには暴力のように、今回のニュースに対する批判が流れていた。
どういう視点で語られた言葉であるとか、その言葉の正しさなどに意味はない。
自分が愛を持って語ることのない事象に対して、文字列の内容に反応するだけの綺麗事の言葉たち。
こいつらは僕の悪癖と同じようなところに立っている。
一段上のポジションに自分を設定し、語っている。
僕はツイッターに僕の想いと愛のたけをぶつけてから、
その言葉と並ぶ読みたくもない批判の言葉たちを黙殺してツイッターを閉じた。

その日は昼休みも昼食を取る気になれず、
ただヘッドホンで耳を塞いでLINKIN PARKを聴いていた。
いろんなことを考える。
41歳だなんて僕にとってみればすぐそこに転がっている未来だ。
人が一人この世からいなくなる。
その時僕の中で生まれたこの激情ともいうべき、怒りと悲しみの感情。
僕の身の回りで起こった友人や身近な人間の死のことも連想するように思い返していた。
人が死んでしまうということのことの大きさ、叩き込まれ湧き上がる異常なほどの感情と情報量。
僕はこうやって色んなことを思って感じて背負い込んでいる。
そのことを考えている時、ふと震えるほどの恐怖を感じた。
僕は今、これまで得たもの失ったものその想い感情を、両手いっぱいに抱えている。
きっとこれからも、不器用な僕は同じようにどんどん抱えて、抱えきれなくなるくらいまで抱える事になる。
だけど、抱えているものはどれも大切で、手放す事なんて想像もつかない。
そうやって蓄積してきた僕が、そいつを抱えたまま歩いている先にあるものが「死」なのだ。それだけは間違いない。
どんな人間であろうと、それだけは平等にそうなのだと考えた時、生きることの恐ろしさを想って恐怖した。
あの世なんてものがあったとして、だからと言って僕の自我をそのまま持っていけるとはとても思えない。
だいたい80年やそこらで蓄積した大切なものの集合体は「死」によって霧散する。
このことを思わずツイートしたら、カマウチさんからリプライを貰って、その中に「無常」という言葉があった。
無常というのはそういうことか、と、昔の人が仏様に縋った気持ちに想いを馳せながら、ストンと腑に落ちた。

僕の写真に意味などないと思っていた。
ただただ僕はカウンセリング程度に考えていたけれど、そうじゃないかもしれない。
あの世には持っていけない、何かを残せるかもしれない。
残したところで「死による霧散」からは逃れられないし、その事実に時折僕は恐怖するのだろう。
だからと言って、残したいというある種の欲望を黙殺することはできないし、
ましてやこんな恐怖を抱えながら、自らを保身する嘘でそいつらを汚してしまうなんて、耐えられない。
だから僕は、これからも不器用に淡々と写真を撮っていこうと改めて思い至るのだった。

今回、久しぶりにアパートメントに文章を書いて、
その文章と一緒に貼り付けた写真は、僕の嘘偽りのない生活そのものだ。
僕は物書きでもないので、文章はきっとひどく拙い部分も多かったのではないかとは思うけれど、
それでも、最初から最後まで、描写の一つ一つ、写真に至るまで「嘘」はつかずに書くことができたことはよかったと思う。
嘘をつかないということは、きっと当たり前のことだけれど、嘘つきの僕にとってはこのうえない美徳なのだ。
これからも嘘をつかずに自分が抱えるものに真摯に向き合いたい。
それがこの僕という嘘つきの本懐なのである。

岩男 明文

岩男 明文

あいかわらず写真を撮っています。

Reviewed by
松渕さいこ

噓を吐くのは私たちが社会的な動物だということなのかもしれない。
ひとりぼっちだったら嘘を吐く相手もいない。それは、嘘で覆われた自分自身を映しだしてくれる人がいないということ。嘘によって時に見え方の変わる世界を共有してくれる人がいない、ということ。

心のことを思ったとき、嘘は必ずしも悪者じゃない。もしかしたらあったかもしれない可能性のことを、嘘と人は呼ぶ。誠実であることは、自分自身にとってももしかしたら他人にとってさえも、時には毒じゃないかと私は思う。

岩男さんの嘘に対する姿勢は誠実というよりも正直だ。正直はでも、少なくとも毒じゃない。正直に話すことで自分も周りもびっくりするような衝撃はあったとしても、それは長く続かない。さらけだすことは勇気がいるけど、きっと周りの大事な人たちはその瞬間を待っていてくれる。

誠実というのは、むしろ岩男さんの写真のことだと思う。細心の注意が払われながら、自分の心の鏡のような水面を写したり、きっと大好きで仕方ない友だちの満面の笑みを捉えている。大きな感情を抱えきれないほど抱きながら、そっと掬いあげるような繊細さで。噓のないように、傷つけないように、喋りすぎてしまわないように。岩男さんがこの連載で見せてくれた写真を眺めて、そんな誠実さを感じている。

まるごと自分なんだ、と分かっているのにはっきりと愛せない。そんなことが私も多い。そんな自分を補ってくれると思うモノや友だちを代わりに大切にできたらその愛情は巡り巡るんだろうか。

そうだと、いいね。

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