先日、このクラウドファンディングに支援をした。
タレは断固拒否!豆にこだわる”二代目福治郎”の納豆をご賞味あれ
ちなみにいま私はクラウドファンディングサービスの運営会社で仕事をしているのだが、別に宣伝をしたいわけではない。というのも、私が支援した時点で、すでにこのプロジェクトは達成済だった。それでも私は支援せざるを得なかった。
納豆が好きだから。まあそうなんですが、それを超えて、中高時代、納豆は私の身体を支える柱のひとつだったのだ。
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下宿では、掃除洗濯は自分でやることになっていたが、ご飯は大家のおばさんが作ってくれた。それを、母屋の食卓で食べる。
朝ご飯は、ご飯と味噌汁といくつかのおかず。それを弁当箱に詰めて、昼ご飯に。ただし週に2回は「パンの日」といって、おばさんがパン屋さんで買ってきたパンがずらっと食卓横のピアノの蓋に並び、好きなのを2つ選んで昼ご飯に持っていくことになっていた。晩ご飯は、日替わりで何かしら。
私は、朝は睡眠を重視していたので、毎日秒針と競りながらおかずを口に突っ込み、鞄をひっつかんで走っていた。当然パンの日は、余り物ばかり。ぼってりした、小麦の味で勝負してますって感じのパンとか、全体的にあまくてひらべったいパンとか。
一方で、晩ご飯はよく記憶に残っている。
部活が終わって、帰ってくる頃は大体空腹なので(寄り道して買い食いできる店などないから)母屋に直行する。玄関に鞄を置いて食卓へ。まず湯呑みを取って、冷蔵庫の牛乳を飲む。
当時下宿にはなぜか、お茶という文化がなくて(食後に熱いのを急須で淹れることはよくあったけど)、冷たい飲み物といえば牛乳だった。夏は、みんな帰ってくるたびすごい勢いで牛乳を飲むので、一瞬で何パックもはけた。
喉が落ち着いたら、食事だ。下校中、下宿生と一緒になったときは「今日のご飯なんだと思う?」「賭けよう」という話題が定番だったけど、というのも、晩ご飯のメニューは、ものすごく、ものすごーくローテーションだったのだ。そして正直なところ、味は微妙なことがしばしばだった。適切な言い方に迷うところだけど、とりあえず、おばさんは料理がそこまで得意でなかった。
家庭的な料理だったことは間違いない。いわゆる寮とか学内食堂とかみたいに規格的なものではなかった。ただ、家庭的なものが即ちとってもおいしいかというと、そこが現実の歪さで。
ど田舎。満天の星空。屈託のないおばさん。愛すべき下宿生たち。愉快な小事件。豊かな時間の詰まった食卓。そしてちょっと残念なご飯。
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残念、と断言するのは正確でないかもしれない。決しておいしくないわけではないし、栄養バランスも考えてくれていたと思う。何より、八十代のおばさんが、食べ盛りの子のご飯を十人以上分、毎日毎日作ってくれるなんて普通ありえないことだと思うし、そのことに私たちは心から感謝し敬意を持っていた。
だから面と向かって文句めいたことを言ったことはなかったけど、とはいえ食事は毎日のことだから、下宿生同士でうめきあうことはあった。
例えば、おばさんはスパゲッティをスパゲティイと言う。それはおばさんらしい愛嬌なのだけど、いまいちスパゲティイのあるべき姿を分かっていなふしがあって、塩気の強いコンソメスープ風の何かを「和風スパゲティイ」と称して出してくれたり(スープスパとも違うような?)、薄く引き延ばしたミネストローネ風の何かを「ミートソーススパゲティイ」と呼んでいたり(そこにミートは入っていたのか?)。
白飯はたいがい朝からずっと保温されていて、硬くなったり黄色くなったり、コーンスープのようなにおいがするときもあった(さすがにそれはやばい気がして指摘した)。
水炊きは本当に水だけで葉野菜を炊くものだと思っていたから、ほぼ茹で白菜を食べているようだったし、「サラダ」といえばキャベツの千切りのことだった(トマトが出ることも)。
そして、そんな不思議な料理たちは、だいたい2週間に一度くらいのペースで同じものが巡ってきた。きっちり順番があったわけではないので、同じ週に同じ料理が当たることもあった。おばさんも、メニューに頭を悩ませず、量を作りやすいものを回していく習慣ができていたのだろう。
おばさんは料理がそんなに得意ではなかったから、勘で味付けしたりアレンジしたりというのもやりづらかったのだと思う(一度、「今日の料理番組でやっててん」と作ってくれた新種料理が出てきたことがあったが、なかなか感想の言いづらいもので、以来二度と登場しなかった)。
そんな食卓で大切だったのは、限りあるメニューをいかに楽しむかということだった。
まずは気持ちの問題で、徹底的に環境を茶化した。「うお、まじか今日も水で炊いた白菜か……うわあああ」。ポルノグラフィティの「ROLL」という歌が流行ったときは、その替え歌を作って「巡り巡る、今日もカレー♪」などと歌った(暇だったので、歌詞全部を翻案した)。
より直裁な解決策は、できる限りのカスタマイズを工夫することだ。茹で白菜も、ポン酢と青じそドレッシングと塩とごまドレッシングとしょうゆと塩昆布とでは、違った味わいになる。あとは多彩なふりかけ。卵トッピング。チーズトッピング。そして、納豆である。
幸い、納豆はいつも冷蔵庫に補充されていたので、もう、何にでもかけた。納豆が合わない料理は基本的に無い。オムライス、カレー、お好み焼きはもちろん、冷やし中華やそうめんにも合う(箸が滑らかになる。オリーブオイルみたいなものだ)。例の謎スパゲティイにもかけたし、クリームシチューも見た目以外はイケる。
また、納豆の種類を見る目が肥えるようになった。豆の大きさ、種類、タレの味。
一時は混ぜる回数にもこだわっていて、究極何回混ぜられるか実験したこともある。混ぜまくっているとパックが熱くなってきて、お椀に移して結局千回くらい混ぜた。最終的に豆はどろどろになり、食べてみるとべっとり熱かった。得られた教訓は摩擦熱だった。
もちろん下宿生全員が納豆を好んでいたわけではなく、私は特によく食べていた(平均1パック以上/日)ので、「ゆきみちゃんは性格もねばねばしてる」と言われる始末だった。
そういうわけで、私は納豆で食生活を乗り越えてきた。今でもたまに職場で、お昼に納豆ご飯を食べている。
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クラウドファンディングの仕事をしていると、人って、モノではなく物語にお金を使うとき、幸福感を覚えるものなんだなあということがよく分かる。
自分に近いところにある物語、近いところにあるような気がした物語には、特に。高級納豆も、私がやむにやまれずいろんなものに豆をぶっかけていた、その記憶の再生、記憶の証にお金を出したようなものかもしれない。
一方で、思い出にお金を出して思い出を補強するというのは、インスタ映えならぬ自分史映えに喜んでいるようで。過去の肉づけのために今を使う、人生の拡大再生産のフェーズに入るのはまだ早いし、自分の生の円の中心を、少しずつずらしていく余裕や唐突さは、失わずにいたいと思う。という自戒は、記憶を語るこの連載の中で、幾度も繰り返しているけども。
さておき、タレを拒絶される高級納豆というのは未知なので、届いたあかつきにはうやうやしく、適切な回数混ぜていただきます。
あ、7月10日は納豆の日なんだとか。