温かい赤ん坊が僕の腕の中ですやすや眠っている。この子が生まれてから今日で十日目だか抱いている時は未だに緊張する。もしも自分が何かの拍子にほんの少しでも手を滑らせてしまえばこの子の身体はいとも簡単に壊れてしまうかもしれない。可愛さ以上にそういう恐怖心が身体を強張らせる。こんなふうに感じてしまうのは父親になった自覚が足りないせいかもしれない。現に妻や義父たちは慣れた手つきで赤ん坊を抱くことが出来ている様子だ。
「ねえ」と、ベッドの上から妻が僕に尋ねる。「あなたはこの子にどんなふうに育って欲しいと思う?」
出生届は今週中に提出しないといけない。この子の名前はまだ決まっていない。
妻の妊娠が明らかになった頃から僕はアサのことをよく思い出すようになった。アサは小学生の頃の同級生だった。アサというのはあだ名で本当は確かアサクラという名前だったと思う。アサは背が高く、ガリガリに痩せているくせに給食はいつもたくさんおかわりした。無口で表情も少なく何を考えているのか分かりにくかった。避難訓練の時にひとりだけ校舎内に残っており学校中から笑われたこともあったそのくせ女の子たちからは密かな人気があり、毎年のバレンタインデーには幾つかのチョコレートをロッカーの中に入れられたりなんかしていた。
アサは変わり者だった。テストの点はいつも良かったけど授業の最中には「この漢字はどうしてこういう形しているんですか」とか「水は燃えないのにアルコールが燃えるのは何故」とか、大人のいうところの「授業とは関係のない質問」ばかりをしていたので、先生たちからは煙たがられていた。その一方で、アサの質問癖に困っている先生たちの姿を、ほくそ笑みながら見ていたのは多分僕だけではなかったように思う。
アサは殴り合いの喧嘩をして叱られることも多かったが、僕が知っている限りだと、彼が喧嘩をしていた相手は、弱い者いじめをやっていた奴かいつも威張っている上級生ばかりだった。アサは喧嘩に勝つこともあったが、負けることもあった。噂を聞いた中学生に呼び出されて、右腕を骨折して帰ってきたこともあった。骨を折られてもアサはいつものように無表情で、悔しそうでもなければ、悲しそうでもなかった。
いちばん印象的な記憶は五年生の時の運動会だろうか。あの時のアサは誰よりも熱心に練習をしていたけど周囲に合わせて行動することが苦手だったので団体競技ではみんなの足を引っ張ってばかりだった。でも五十メートル走のタイムでは学年全体でもいちばん速かったので、クラス対抗リレーではどうやればアサに上手くバトンを渡せるだろうかということをみんなで話し合った。リレーの結果は、きちんとは覚えていないけど確か二位か三位だった気がする。一位ではなかったけど、良い思い出として今でも覚えている。
良くも悪くもアサは目立っていたので、彼のことを嫌う奴や悪くいう奴は結構たくさん居た。だけれど僕はアサのことを嫌いではなかったし、同じように思っていたやつも少なくなかったはずだ。アサが引っ越して行ったのは僕らが六年生になった年の春のことだった。親の転勤が理由なのだと担任から聞いた。それ以降、彼がどこの土地でどんな生活を送ったのか、今どこで何をしているのか、僕は一切知らない。にもかかわらず、日に日に大きくなっていく妻のお腹を触りながら、僕は彼のことを何度も思い出した。
「あなたはこの子にどんなふうに育って欲しいと思う?」
妻からの質問に対してすぐに答えることが僕には出来なかった。強いていうなら幸せになって欲しいが、それを口に出そうとするとアサの顔が思い浮かび、何故だか躊躇われた。だけどその代わりに、僕自身はたとえこの子がどんなふうになっても愛せる親になろう。そういうふうに思った。