Aの本名を私は知らなかった。年齢や職業も聞いたことがなかった。私とAは毎週日曜日の十一時に彼が住むマンションの部屋だけで会った。その時間に部屋を訪ねると玄関の鍵が開け放されていた。毎週決まった時間と場所で会うのでそれ以外の時に連絡を取り合う必要はない関係だった。私たちは会うたびに一度ずつセックスをした。Aの身体は酷く痩せており二十四本ある肋骨のすべてが浮かび上がっていた。細く長い腕や脚はまるで執拗な蛇のように私の身体を締め上げて毒した。セックスの後には一緒に食事をした。食事はAが作ることもあれば冷蔵庫の中にあるものを使い私が作ることもあった。身体の貧相さに反してAの食事量は非常に多かった。食事を済ますと他愛のない会話を少しの時間だけ交わしだいたい十五時前には部屋を後にした。そのようにしてAと過ごす時間を私は気に入っていた。
Aの部屋を後にすると私は必ず父が入院している病院を尋ねた。病室に居る父はいつも決まって窓の側に座り幼い子どもが好むな絵本を読んでいた。この人はかつて私にとって自分の父親だった。特段お金を持っているわけでもなければ格好良くもなかったが私に対して誰より優しかった。だが五年ほど前から父にすこしずつ食べ物ではないものを口に含んだり突然脈絡のないことを言い出すなどの奇妙な言動が目立つようになった。父に訪れた変化について脳の病気を発症しており治る見込みはあまり多くないと医師は説明した。病気を発症した父は私のことを違う女の名前で呼ぶようになった。母や弟の名前は呼ぶことが出来ても私のことだけは違う名前で呼んだ。その女が父にとってどういう存在なのかは知らない。そもそも実在する女の名前なのかさえ定かではない。
Aの住む部屋は不思議な空間だった。食品模型や小動物の骨格標本が床に置かれていた。本物だか偽物だか定かではない貴金属類が玄関のシューズケースの中に放り込まれていた。ずいぶん昔に行われた万国博覧会の写真集やコンクリートの塊や何かの骨が本棚に並んでいた。ベランダには百八十センチほどの高さがあるマネキンが五体並んでおりそのうちの一体は訪れるたびに違う服装をしていた。部屋の有り様とAの人間性がまったく結びつかない。そういう部屋だった。どうしてこの部屋はこんなふうになっているの? 私は一度だけAにそう尋ねた。「素敵なものを探している」とその時Aは答えた。「がきの頃からずっと探している。でもそれが何なのかが俺には分からない。自分が何を探しているのか俺は分からない。だから人が良いと思うものはだいたい集めてみた。自分が良いと思うものにはまだ出会えていない。満足できないまま物ばかりが増えてこういうふうになった」
抱かれながら、Aはおそらく彼のいうところの「素敵なもの」を手にすることがきっと出来ないだろうと私は考えた。本当に大切なものは名前を呼ばなければ決して手に入らないと私は知っている。だから今のAがやるべきことというのは誰彼構わず手に入れることではない。欲しくもないものばかりを集めてお茶を濁すことはやめて「素敵なもの」の名前を明らかにすることに他ならないと思う。だけれど私はAにそれを伝えなかった。なぜなら私は、自分がAにとっての「素敵なもの」ではないということも理解しているからだ。
冬のことだった。私は自分の習慣に則って日曜日の十一時にAのマンションを訪れ部屋のドアノブを回した。けれどドアが開くことはなかった。扉の前に立ち尽くしていると髪の長い中年の男が私に声を掛けた。男は一度くしゃくしゃに丸めてから再び開いた紙のような顔をしていたが髪の毛だけは妙に艷やかだった。「アサクラさんなら昨日引っ越したよ」男はそれだけ言い残すと踵を返しその場を立ち去った。
アサクラ。冷たい扉に手のひらを当て、私の舌は小さく声を発した。