8月24日から福岡の奥八女・笠原地区に滞在しています。ここで農業と芸術をつなげ、笠原という土地を捉え直すプロジェクトに参加しています。お米づくりを中心とした農業に従事しながら、新たな芸能を地元住民の方々、またこのプロジェクトの参加者とともに生み出す試みです。
ここでまた「芸術」と「芸能」というこの連載におけるキーワードが出てきました。前回は「『踊り念仏』から芸術と芸能の違いを見出す」とお伝えして結びましたが、すでに笠原に身を置いていることもあり、このプロジェクトの模様を共有することで、その違いと可能性を深められたらと思います。
さて、この奥八女芸農学校というプロジェクトに講師として参加するにあたり、以下の広報文を寄せています。
〈民俗芸能、それはどのようにして起こり継がれてきたのでしょう? 一概に民俗芸能といっても土地によって千差万別。そこで生きていく知恵や後世への祈りなどが何世代もの祖先を介して独自の発展を遂げながら継がれていく、そんな「息づくアーカイブ」が民俗芸能だと思っています。
このプロジェクトでは奥八女・笠原地区のみなさんと生活を共にしながら、農作業での所作や災害をふくむ歴史、ときには他愛もない世間話などから、民俗芸能としての振りを起こして住民の方たちへ提案。共有・対話しながら、一緒に笠原地区の民俗芸能を創造します。現代を生きるわたしたちに、民俗芸能はもはや無用の長物なのか? 住民の方たちはもとより、その背後にある、この土地に生きた死者たちとそんな問いを巡らせます。〉
http://www.sal.design.kyushu-u.ac.jp/180829-0916okuyame.html
ここまでの連載を読んでこられた方には、何度も目にしてきたフレーズでしょう。たしかに前提としては同じなのですが、これまでに紹介してきたプロジェクトの構造を振り返ると、朽木古屋の六斎念仏は〈芸術から既存の芸能へと働きかける〉。阿佐ヶ谷での『踊り念仏』は〈中世芸能の起こりともいえる宗教儀礼から芸術を見出す〉と、主体となる明確な行為/行動(古屋の六斎念仏/踊り念仏)があり、それに芸術を掛け合わせることで、新しい展開を生み出すという志向かと思えます。
この奥八女でのプロジェクトでは「主体となる明確な行為/行動」はなく、芸能をつくろうとしています。これは大変な作業です。実際、芸能はその土地で生活を営む民たちによって長い時間を掛け、形づくられてきました。しかし、広報文でも述べられている、「そこで生きていく知恵や後世への祈り」から、現代にも芸能を立ち上げられるのでは? と考えています。つまり、どんな土地でも人が生きる限り、芸能を生み出す素地はある。そうした日常に埋もれ、誰も意識しないささやかな行為/行動に芸能の萌芽はあります。
また、上述で「新たな芸能を地元住民の方々、またこのプロジェクトの参加者とともに生み出す」と書きました。このプロジェクトの参加者とは、奥八女芸農学校に参加されている受講生の方々もそうなのですが、わたしと同じく8月24日から9月20日まで笠原に滞在する香港とロシアからの計3名と主につくります。彼らと寝食や農作業をともにし、地元の方たちと酒を酌み交わし、どうでもいいような、でも大切な話をしながら芸能を生み出そうというわけです。
そんなこんなで1週間が経ちました。英語と八女弁の飛び交う日々にもようやく慣れ、8月29日〜31日におこなわれた奥八女芸農学校でのレクチャーとワークショップも無事に終えました。そんな現状に頭をもたげるのは、現代の日本において人間としての個性を持ち得るのは都市ではなく、中山間地域なのではないか? ということです。芸能の衰退、ひいては中山間地域の過疎化は社会構造の変化に因る価値観の変容にあると以前に述べました。社会構造とは多くの場合、国家の多様かつ巧みに施された「デザイン」によって形成され、その影響を我々に及ぼすわけですが、そのデザインのひとつに生活の機械化があると思えます。機械化は確かに人的な作業量を減らし、わたしたちにある豊かさを与えました。しかし一方で、そこに生じる振る舞いはその土地に関係なく画一化され、自然との対話に生み出してきた工夫は失われていきます。たとえば、1950年代の三種の神器〈洗濯機、テレビ、冷蔵庫〉を上記に当ててみるとよりイメージしやすいでしょう。もちろん、中山間地域においてもそうした家電をはじめとした機械は生活に浸透しているのですが、自然との対峙はいまなお続き、そうした国家的デザインからも遠い土地にあるため、その身体的思想的な画一化からは比較的「守られている」といえると思えます。
しかし、とするとこれまでにわたしが述べてきた「芸術は個人が重視され、一方の芸能では集団形成に重きが置かれてきた」とする、芸術と芸能の違いに矛盾が生じます。芸術の多くは都市部でおこなわれ、芸能の多くは中山間地域で継がれてきたからです。次回は引き続き、笠原地区での農業と芸術の交歓の様子を取り上げながら、芸能と芸術を巡る思考をさらに深めていきたいと思います。