私は漫画が好きである。アニメも大好きである。ゲームも少々嗜む。
ここ数年は特撮にどハマりし、幼児に挟まれてヒーローに声援を送ったりしている。
漫画は毎月20冊は買う。電子書籍を購入するようになってからは、部屋のスペースを取らないことを良いことに購入ペースは落ちない。アニメでは、1クールの終わりと始まりに四季の移ろいを感じる。見終わったらSNSでさまざまな感想を見てうなづく。買い専だったコミケもついにサークルデビューした。
ちなみに過日Facebookの企画ではるばるロスまで行って、向こうのお偉いさんに囲まれる中、「進撃の巨人」サントラを響かせながら和紙に狛犬を描くという残念な軌跡を残した。(いつも通りリラックス描いてと言われた結果そうなってしまった)
そんな私を友人のS氏はオタクと呼ぶが、とんでもない。
浮雲のように好きなものが変化する私である。その知識は広くて、浅い。かくいうS氏は虫や恐竜が好きで、やたら長いカタカナ名をすらすら暗誦しながら楽しそうに話す。コミケのかわりに生き物フェスで虫を買う。オタクと言い放った言葉が、ブーメランの如く額に突き刺さっていることに気づいてない無垢の笑顔に和む。
オタクという言葉は呪詛だ。
つい数日前までそう思っていた。
オタクを理由にバカにされた人は一体どこの世界線に生きてるの??
今回、漫画やアニメや特撮好きだと口を滑らせてもいいと思うきっかけとなったツイートである。漫画やアニメがまるで暴力性と歪んだ性癖を育む栄養剤のように謳われる時代で、私は小中高を生きてきた。漫画やアニメを読む、見る以外の行動をするときは——好きなキャラを上手に描きたい、好きなキャラのグッズを買うことで本編では見られない姿が見たい——草葉の陰に忍んで事を運ばねばならない掟があった。
ちなみに買うだけ買ったグッズを身につける訳にもいかず自室に保管。10年後、母が何かの鍵にぶら下げていた蔵馬のキーホルダーを見つけて息が止まって死ぬかと思ったのは良い思い出である。
SNSや動画配信の進化によって、世界中の二次創作や作品愛の結晶を見ることができる。それらに作り手の愛を感じるとき、これまで歩んだ泥濘の道が浄化されていく気持ちになる。もう数年すればまた意味合いが変化する言葉なのだろう。
多様性とは、自分にないものを持つ他者を認め、尊重することだ。考察し愛を唱え続けるエネルギーが世界を優しく回す。今の時代、それに名をつけるならば「オタク」なのだろう。オタクと呼ばれたい世界はすぐそこに来ているかもしれない。
“好きなものを見つけ没頭できるあなたは素晴らしい”というエールに変わる言葉として「オタクですね」という褒め言葉が常となるかもしれない。そのときがきたら、私は笑顔で「かたじけない」と言いたい。