行きつけのカフェというやつがある。
いろんな仕事の山場を秘めやかに乗り越えてきたこの店こそ、アパートメントの全8話を締めくくるに相応しいと(そもそも家かここしかないのだけど)鼻息荒めに、今これを書いている。
今は昔、最初は普通の接客だったのだが、仕事が詰まってほぼ毎日通った時期があった。それからというもの入店1番、店長はじめ店員さんまでもが快活に「おつかれっすー」と言う始末。いらっしゃいませという言葉を諦めて久しい。土日に行こうものなら「今日平日かと思っちゃったじゃん、びびったー」と言われる。そんなこと言われてびびったのは私の方だ。
挨拶なんて飾りですよと言わんばかりにハートフルエピソードを繰り出してくれる心のオアシスっぷりを少しご紹介したい。
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私「注文……」(・∀・)ノスッ
店 (・∀・)ノシ ブンブン
私「友達かよ」
注文とりにきてくれない
#いつものカフェ
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入店したら小さく手を振られたのでそれに応えて振り返す。
小さな灰皿をいつも針山のようにするので、応接間みたいなん出される。
オーダーを済ませた今、まだ一度もいらっしゃいませと言われていない。
#いつものカフェ
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「バズるってさ」
「海に捨ててェ……!(裏声)」
「何パズってんの」
店員さんの会話がアレで捗らない
#いつものカフェ
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ゆるい。アコムでももうちょっと厳しい。だがこれが良い。
普段はラフ&ライトな扱いではあるが、打ち合わせの時間がやや早めに設定され、場所に困っていたら開店前に融通してくれた。閉店時間過ぎても仕事がひと段落しなくて精神がベコベコになっていたら、1時間延長して営業してくれた。やる時はやるのだ。それが基礎となって、私にとって安心できるありがたい場所の一つなのである。気を使わない、緊張しない空間はパフォーマンスが安定する。
私は緊張に弱い。変化が苦手で、環境が変わると慣れるのに時間がかかる。
しかし前回の話でも言ったように、私の顔は私のピンチを表出してくれない。人見知りはするし、見知った同士の食事でさえも4〜5人以上のパーティは、話が煩雑になり集中力がいるので極力避けたい。今想像しただけで少し疲れた。
社交性そこそこあると言われる人よ。
その場で話を合わせるのが得意なだけで、一晩寝たら誰と何を話したか思い出せないことはないだろうか。私はある。あるっていうかそれがデフォルトだ。
社交場で、親しげに話しかけてくれる相手(しかも相手は私の名や仕事内容をそこそこ知っている)の顔も名前も思い出せない緊張状態の中で微笑みを湛えている。そんな夜はぐでんぐでんに弛緩しながら「社交性って何だよもうごめんなさい!!!」と頭を抱える。話しかけてくれる方に、常に感謝と申し訳なさがある。また会えたら嬉しいけど、また会っちゃったらどうしようと、あらぬ緊張の皮算用までする。
緊張ってやつはいくつになっても、どのような場面でも顔を出す。
プレゼンや撮影やインタビュー、ショッキングなニュース、初めての場所や初対面の人との交流。緊張する場が続くとすぐに疲労して熱を出す。我ながらメンタルがマンボウ並みである。山を越える度に人知れず突然の死を迎えては復活する。
死と復活の間で、気付いたことがある。緊張とは、失敗したくない恐れから生まれている。
恐れを忌避するがゆえに、見栄張りカッコつけを繰り返し、私はしゃらくささの化け物になった。
当アパートメントの8話を通して、1枚また1枚それを脱ぎ捨てて禊ぐことができたと感じている。しょうもない悩みをカミングアウトしたことで声をかけてくれた人や、共感してくれた人がいた。感謝である。
実を言うと、冒頭の「行きつけのカフェ」という一言だって、最初「サードプレイス」と書いていた。最終話だから良いところを見せなければと無意識に緊張する。こういうスットコドッコイを軽やかにかわせる私になりたい。
アパートメントでの8週に渡る禊で得た成果は、緊張を回避する最良の策は「どこに誰といたって素のままであること」という解を得たことだ。そして私にはそれが難しく、すぐには実現できないということもセットで。
引き続き私は、ビビりながら安全地帯を広げたり畳んだりして、日常を拡張していくのだろう。しかし、それを楽しみにする自分がいる。日常は、過ぎると全てが特別になることを知ったから。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
Special thanks
編集長/レビュアーの美奈子さん/ブレスト相手のS氏/いつものカフェ