おにぎりのタトゥーを入れて、中の具は死ぬまでだれにも言わずにひみつにしたい、そんなふうに人に何度か話したことがある。たいていの人は意味がわからないという反応をするか、ただ笑うか。ほんのすこしのひとだけがいいねと言う。
いつもの冗談のひとつだとおもわれがちだけれど、これにははっきりとした理由がある。別におにぎりじゃなくてもかまわないのだけれど、中身をひみつにするように、何によっても侵されないじぶんだけの領域をひとつ身体に持つのはすてきだろうとおもうから。それはわたしがわたし以外のなにものでないということを、常に思い出させてくれるしるしになるような気もする。
できるだけいつも「○○みたいになりたい」と言わないようにしてきたし、そんなふうに考えないようにしてきた。だれかひとり、なにかひとつだけを目標にしてしまうと、じぶんでじぶんがどうありたいかを考える必要がなくなってしまう。だれかの生き方を目にして、ああいいな、と感じたら、その部分だけを実践してみる。けっしてその人になろうとはしない。
ずっと前、人生がぐちゃぐちゃになりそうになったとき、とつぜん思い立って海外へと飛び出した。もともと外国で暮らしてみたいという気持ちがあったし、留学をした人びとが話す「価値観が変わった」という体験が、ほんとうなのかじぶんの目で確かめてみたかったからだった。
わたしが過ごしたカナダには移民がたくさんいたからか、ほとんどの人がわたしを外国人として扱わなかった。知らない人にはやたらと道を聞かれたし、スーパーマーケットでは選んだパスタを突然ほめられたし、レジで前に並んでいる人はポテトチップスを持っているわたしを見て「塩分が多いからやめなさい。きのうラジオで良くないって言っていたわよ」と忠告した。
そのころいつものように家に向かうバスを待っていると、首にきれいなタトゥーを入れている人がいた。ぼんやりと見ていたら、それに気づいた彼女がほほえみ、声をかけてくれた。人もまばらなバスの中でわたしたちはそばに座り、彼女は出会ったばかりのわたしにじぶんのタトゥーの意味を話した。じぶんの選んできた過去を疑わない様子があまりにもまぶしくおもえて、わたしはバスをすでにふた駅も降りそびれていた。
「いつか何かが変わって、そのタトゥーを入れたことを後悔するかもとおもわなかった?」という今考えるととてもぶしつけな質問をした。すると彼女はすこし笑って、「でもそれもわたしの人生だし」と答えた。そのあとわたしはバスを降りて、行き過ぎた分を歩いてもどった。家の近くのはずなのに、こちら側の景色はひとつも知らなかった。
そのときから、わたしは「もしタトゥーを入れるなら、どんなふうにしたいだろう」といつも考えるようになった。冒頭で話したおにぎりも、その候補のひとつ。ふと思い立って、もったいなくてひとつも使わずに取っておいたタトゥーシールを身体にひとつ貼り、一日を過ごしてみた。
なにかを後悔したとしても、それもわたしの人生だとまるごと受け入れる。その考えにどこまで影響されたかを意識したことはなかったけれど、肌にうつしたタトゥーシールを見て、じぶんがあのころからずいぶん変化したようにおもえた。異国の地で知った生き方のひとつは、いつのまにかわたしの生き方のひとつとなっていた。
きっとこれはお風呂に入ったらお湯とともに消えてしまうだろう。だけれど、もしこれが本物だとしたらという空想の中にいるあいだは、これがしっかりと、ほんとうの力を持つようにおもえる。わたしがいつか消えない絵柄を決めるまでは、ときどきこんなふうに試しながら暮らすのもいいかもしれない。
さっきまでなにもなかった肌にあるその絵は、バスを降りりそびれたあのときの、近くにあったのにまったく知らなかった風景を思い出させた。