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2F/当番ノート

父のこと(2)

当番ノート 第53期

前回触れたように、私は父に愛されていた。それを象徴する、わかりやすいできごと一つ紹介しよう。

24歳のとき、友人としてもかねてから付き合いのあった同い年、同郷の男性と初めての入籍をする。当時東京で暮らしていた我々があいさつに行くのとは別の機会に、先方のご母堂と私の両親が対面したそうなのだ。その場にいたわけではないので詳細は分からないのだが、「ふつつかな娘ですが」とかなんとか言いそうな場面で、父は予想外の言葉を発したらしい。

「希望はとても素直ないい娘です。私たちの誇りです。とはいえ、未熟なところも多く、ご迷惑をかけることもあるでしょう。それは長く関わってきた私たちの責任でもあります。娘ともども、ご指導ください」

これには私も驚いた。と同時にご母堂も驚き、呆れてはいないかと心配したのだが、「希望ちゃんを一人の人間として大切になさっているのだね」と、好意的に受け止めてくださったので、胸をなでおろした覚えがある。

自発的に自慢することはないが、誰かが私を褒めても謙遜など一切しない父だったのだ。そんな環境で育った私は、「親は子を愛して当たり前」「子は親を敬うもの」という言説に、何も疑問を持たずにいた。そんなこと、父からも母からも言われたことがないにも関わらず。

中学校に上がるころにもなれば、お父さんを毛嫌いする同級生女子の姿が目に入る。「ある年頃になれば、女の子はお父さんを嫌うもの」などと常識のように語られてもいたが(実際は明確な理由もあるそうだが、ここでは触れない)、私にはさっぱり理解ができなかったのだ。父に関して、腹が立つことはあるが、嫌うべき明確な理由がない。むしろ気が合うおっさんだったので、山だ本屋だ博物館だとよく一緒に出かけていた。

あるとき私は雑談の延長で、「女の子はお父さんを嫌いになるのが常識らしいよ」と、何気なしに父に話した。父も父で「おお、噂のあれか」と相づちを打ってきた。そこから「なんでだろうねえ、まあいろいろあるのかもしれないねえ」などとうなずき合ったあと、話を締めるつもりで私が口にした「自分の親が嫌いだなんて、不思議だよね」という言葉を受け、父は「うーん」と天を仰ぐようなしぐさを見せてから、返答をした。

「それは別に不思議じゃないな。親子といっても、別個の人間だから。親が良かれと思ってしたことでも、子が喜ぶかはまた別。心のこもった贈り物でも、場合によっては価値観の押し付けになってしまうのと同じで」

当時の私にとっては意外な反応で、なおかつ、理解しきれる内容ではなかったため、狭い世界で見た常識を払拭するには至らなかった。訳も分からずうなずいてはみたものの。父は、さらに続けた。

「まず、親なんて大事にしなくてもいいんだしな。なんぼか長く生きてるってだけで、優れた人間であるわけでもない。しかも、頼まれてもいないのに子に生を与えた勝手な相手だぞ、偉そうにできる権利なんてないからな」

親なんて大事にしなくていい――これに準じる言葉は、以前から何度も父に言われてきた。しかし幼い私には口癖のように届いており、理由や言葉の背景にある気持ちについて、聞こうとはしてこなかった。が、このときは何となく聞きたくなった。少し成長していたこともあるかもしれない。

「お父さんは、自分の両親……じいちゃんとばあちゃんのこと、好きじゃないの?」

「母親は好き。父親は大嫌い」

拍子抜けするほどの即答、なおかつ明るい声だったが、父は私や兄が祖父に懐くことを一切咎めなかったので、私は軽く混乱した。

「希望は、俺の気持ちを理解できないだろうし、むしろ理解できない方がいいと思う。ただ、親を敬えない子もいるんだってことは知っておいてほしい」

そう言われて、父に突き放されたような寂しさと、知りもしないことを自分が偉そうに語ってしまった恥ずかしさで、私は口をつぐみ、うつむいた。生意気な自分を反省したものの、父の真意を知るのはもう少し後になる。

やがて部活動が忙しくなり一緒に出かける機会は減ったものの、父と私は大いに衝突し、大いに話し合い、大いに笑い合う親子であった。私が持病による意識消失発作を起こして病院に担ぎ込まれるたびに、母とともに、あるいは別々に駆けつけてくれてた。さぞかし気をもんだことであろう。その後、ストレスが原因の内臓疾患を発症し、私のせいでもあるのではないかとこぼしたら、「馬鹿が、お前の心配ごときで病気になるわけがないだろ」と笑われたものだ。

私は成人し、少し経ったころから東京で一人暮らしを始め、二度の結婚と離婚を経て、一人息子と共に新潟へと戻ることとなる。しかも、帰郷に関わる二度目の離婚の原因は配偶者間暴力(DV)被害であったため、帰郷したばかりのころの私は、手負いの獣としか比喩しようがないほど神経質かつ狂暴だった。平時であれば聞き流すような言葉に反応して激高し、泣き叫ぶ。娘であるとはいえ、よくぞ根気強く付き合ってくれたものだ。両親には感謝している。

DV被害によって発症したPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療や、後に可能性を指摘され、診断を受ける発達障害に調べていくうちに、私は自分の過去や、両親との関係について向き合わざるを得なくなった。その過程で私は、仲良く接していながら見えていなかった父のある側面に気づき、狼狽する羽目になる。

(続)

鈴木希望

鈴木希望

1975年新潟生まれ、新潟にて息子とふたりで暮らす、フリーランスのライターです。広告媒体の文章を中心に、『LITALICO発達ナビ』などでのコラムもときどき。ヤギを愛し、ヤギについて考え、ヤギを応援しています。

Reviewed by
神原由佳

大人になるにつれて、相談事は父にすることが増えた。
子どもの頃は体調が悪いとか、人間関係のこととかは母に相談していた。母娘のやりとりを、父はいつも一歩引いて見ていたような気がする。次第に身の回りのことは自分で判断がつくようになっていったが、進路や就職など、次から次へと自分だけでは判断がつかないことが出てきた。
大学院に行きたいと思った時、仕事を辞めようと思った時、家を出ようと思った時。これらすべてで、最初に相談をしたのは父だ。その度に毎回喉の奥がぎゅっと苦しくなりながら、おそらく深刻な表情をしながら「あのー…」と父に話しかけてきたはずだ。
相談をする度に、なぜか罪悪感にかられてしまう。父と母の願うような子であれたかどうか、とても自信がなかった。自分の人生を自分で決めようとしているはずなのに、なぜか悪いことをしているような気持ちになった。いや、そもそも本気であるならば相談じゃなくて事後報告でもよかったのかもしれない。それでも、実家にいたあの頃は親の承認を得なければいけない、と思っていた。依存とも言えるのかもしれないけれど、渦中にいる人間がそれを理解するのは本当に難しい。
それに、父に相談をすると必ず、父の人生論や仕事論を延々と聞かされるのだが、最終的にはいつも「由佳が納得するならそれでいいじゃないか」になるのだ。父なら応援してくれるに決まっている、だからこそ「もしも反対されたら」と思うと怖い。
父はそれなりに名の知れた会社に勤めていて、そのおかげで不自由のない暮らしができたのだが、そういう「高水準」みたいなものを求められたり、押し付けられることはしてこなかったことに気づいた。父が私に一体何を求めているのかはわからないけれど、お金などとは違った次元の「豊かさ」を求めているのかもしれない。
福祉の仕事の話をする私に、父はよく「お父さん、資格は運転免許しか持ってないよ」と言う。資格を持っていることや、福祉の仕事をしていることがすごい、と褒める。お金は父のようにはもらえないし、いつもきれいとは言えない仕事だけれどそれでも褒める。私からすれば高層ビルのオフィスで都会の景色を見下ろしながら仕事をしている父の方がよっぽどすごいと思うよ(今は完全にリモートワークになってしまったけれど)。まあ、仕事の優劣は付けられない。どっちもすごい。
思い返せば、父の理想を押しつけられたことなど一度もなかったのだ。「由佳が納得すればいい」ただそれだけだ。そのことを、今の今まで気づかずにいた。そして、私が納得した人生を歩み始めた姿を見て、父もようやく納得しているのではないかと思う。
26歳の最後に気づいたことは、父の哲学かもしれない。

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