重厚なパイプオルガンの音色は、澄み切った余寒の空気と相まって、礼拝堂の荘厳さをより引き立てるように鳴り響いていた。呼ばれてそこにいるはずの自分が、どうにも場違いに思えてならない。仲春の陽射しを柔らかく透かすステンドグラスを見上げ、ひとり呆然と立ち尽くしていたのは、26歳の私である。
「キリスト教のお式は初めてですか?」
振り返ると、こちらに微笑みを向ける、白髪頭をきれいに整えた男性・Mさんの姿があった。
今から10数年前、東京都内で暮らしていた私は、都内にある葬祭専門の派遣会社に在籍していた。前日ないしは当日に会社から指定された通夜・葬儀の会場へ出向き、依頼主である葬儀社の指示を仰ぐ。主な業務は会場の設営・撤去、神職や僧侶の接待、葬家や会葬者の対応など。出向先は都内のみならず、隣県への移動になることもある。日々変わる現場へと飛び回ることも、厳しいと言われるマナーや言葉遣いも苦にならず、職業柄語弊があるかもしれないが、私はむしろ楽しむことができていた。そして、依頼元から「うちの社員にならないか」と誘われたことも数度あった、どこへ行っても使えない人間扱いされていた私が、である。これは私にとって、必要な人員として乞われた、数少ない体験の一つだ。
Mさんはこの日の依頼元の社長。実際私はキリスト教の葬儀を担当するのが初めてたっだのだが、会場前とはいえ、腑抜けた姿を見られてしまったことが気恥ずかしく、はっきり「はい」と答えたつもりが、出た声は思いのほか小さかった。私は驚き、うろたえたが、Mさんはさして気にする様子もなく、相変わらず微笑んだまま、私をスタッフの控室へと案内しながら、式の流れと業務についておおまかに説明してくれた。
「鈴木さんは、この仕事を始めてもう長いんですか?」
「まだ3ヶ月ぐらいですね」
「ああ、じゃあもうベテランだ」
笑うMさんにつられて私も笑うと、「でもこれはあながち冗談でもなくてね」と前置きしてから、Mさんは少し表情を引き締めてから、言葉を続けた。
「もちろん何年何十年と続けている人もいますよ。でもね、1ヶ月もしないうちに辞める人も珍しくないんです。まず、カレンダー通りに休みにくくなりますから」
葬祭業は、暦の友引が休日の基準である。兼業であれば融通を利かせられるが、本業となれば、 家族や友人とスケジュールをすり合わせることが困難になる。あとは精神面の負担 。感受性が豊かな人は、ご葬家や会葬者の心に共鳴してしまい、消耗してしまうのだという。死体と同じ空間にいることが耐えられないという人や、死は払うべき不浄であるという考え方からなのか、「長く勤めていると運気が下がってしまいそう」という理由で、離職した人もいたらしい。これらを含めたデメリットがあるぶん葬祭業は給与が高額であるため、短期アルバイトとして入ってくる人も多いようだ。
トラブルに巻き込まれて借金を背負っていた当時の私も、高額な給与に惹かれて登録をした人間である。そのくせ、場の空気で感情を左右されやすいきらいがあると自認していたため、精神面の負担について、当初は心配していた。しかし、必死さが上回ったのか、就いてみるとどうにかなるものだ。割り切って業務にいそしむことができたのだが、心が揺らぎ、仕事がおぼつかなくなるのも理解ができる。私だって、いつまで平静を保ち続けていられるか分からない。自分の気持ちを否定せず、なおかつ葬祭業のことも否定しない返答をしたい――少し悩んでから、私はようやく言葉を絞り出した。
「繊細な仕事ですものね……」
「そう、私は何十年もこの仕事をしているんだけど、すぐにやめてしまう人たちの気持ちは分かるんですよね。だから、長く続けて欲しいと思ってもなかなか言えないんですよね、プレッシャーをかけてしまいそうで」
Mさんは再び笑みを浮かべた、今度は少し寂しそうに。
いつまで平静を保ち続けていられるか分からない ――ぼんやりと考えていたほんの数時間後、私はあっさりと崩れ落ちてしまう。この日送り出された故人を取り巻いていた状況や年頃などが、早世した私の幼なじみのそれと酷似していたのだ。彼女の逝去から1年と少ししか経っていなかったこともあり、私は、自分の過去とオーバーラップさせてしまった。落涙しまいとすればするほど喉に嗚咽が込み上げる。しかし、気を抜いてしまったら最後、この場から走り去ってしまいそうで、怖かった。仕事を放棄してはいけないという一心で業務を遂行したが、声は裏返り、目は真っ赤になっていただろう。ギリギリのところで踏みとどまっていた私は、控室に戻った途端、声を殺して号泣した。
「誰かのことを思い出してしまいましたか?」
前夜祭(通夜)が終わり、受付などの撤去と明日の準備をしていた私に、Mさんが声をかけてきた。放っておいてはくれたが、控室で号泣する私の後ろ姿を、恐らく目にしたのだろう。私がとっさに謝罪しようとすると、Mさんは手で制するようなしぐさを見せた。
「ご葬家がね、若い女性のスタッフさんにくれぐれもよろしくお伝えください、って。鈴木さんのことだと思います」
なぜお礼を言われるのだろう――私の疑問を察したように、Mさんは続けた。
「鈴木さんが故人であるお嬢さんの不在を悲しんでいたわけではなく、誰かに重ねていたことは、ご葬家も察していらっしゃると思いますよ。それでも、鈴木さんが大切な人を思い出して涙をされる姿に、ご葬家は何かしら、救われたのではないでしょうか」
そういうものだろうか。私にはさっぱり分からない。
「私にもうまく言えないんですけど……とにかく、誰かの不在を悲しんで泣けることはいいことですよ。……私ね、去年の暮れに母を亡くしたんです。大切な母でしたから、もちろん悲しかった。でもね、まったく泣けなかったんです。父はずいぶん前に亡くなっていましたから、喪主は長男である私で、しかも、家業の葬儀屋を引き継いでずいぶん経つ。しっかりと終わらせなきゃいけないという気持ちもあったからでしょうかね。でも、仕事の延長のようにふるまった自分に、ずいぶんがっかりしてしまったんです」
すみません、突然こんな話を、と、申し訳なさそうにつぶやいてから、Mさんは続けた。
「誰しも生きていれば、必ず死にます。死というのは本当にありふれたことです。でも、一人ひとりがほかの誰とも違う命を持って生まれて、生きて、死んでいくのだから、一つひとつの死はそれぞれ違う。父から会社を引き継いだとき、そうしたことを忘れずにい続けようと決心したつもりでした。でも私は仕事に慣れるにつれ、死にも慣れてしまったんですよ、きっと」
平時意識することがなくなったにしても、それだけの思いを馳せられるMさんが死に慣れてしまったとは、私には思えなかった。泣くばかりが悲しみの表現ではない、涙だけが悲哀の証左になり得るわけではなかろうに。しかしその実、Mさん自身にしか知り得ない心の動きがあったかもしれない。だから、私の思い込みだけで軽々しい返答をすることがはばかられた。
「この仕事で頑張っている新人さんを見かけると、仕事に慣れてほしいとは思う半面、死には慣れないでほしいとも思っています。でも、それは難しいかもしれませんし、私の勝手な願いですから」
前述の通り、私はすべての葬儀会場で感情移入をしていたわけではない。思うところがあったにしろ、基本的には他人事である。他人事と割り切らなければ立ち行かなくなる場面があることは、たかだか3ヶ月の間でも実感できていた。だからこそ――。
私の思いを知ってか知らずか、Mさんは続けた。
「葬儀のたびに泣くのがいいということではなく……会場で大泣きして、仕事ができなくなったら困りますしね。ただ、仕事中に誰かの死を思い出してしまうのは、おかしなことでも間違ったことでもありません。自然な心の動きです。だから、気に病まないでくださいね」
後日知ったのだが、故人に強く感情移入をした私を見て、その日のうちにでもやめてしまいそうだとMさんは思ったらしい。恐らく似たような場面を繰り返し目にしており、いくつかあるパターンの一つとして、先の展開が読めたのだろう。
しかしMさんの予想に反し、私の心は折れることなく、この1年と2ヶ月後まで葬祭業を続けた。そして退社の理由は精神面の負担ではなく、事故によるケガと体調不良である。その間、Mさんからの指名を受けて現場へと出向くこともあった。いつの間にか冗談さえ口にするようになった私を見て、 いつの間にか敬語を崩して話すようになったMさんは、 「まさかあの日泣いていた鈴木さんと、何度も一緒に仕事ができるようになるとは思わなかったよ」という話を会うたびに繰り返し、笑っていた。
あれから現場で落涙することが二度となかった私は、仕事に慣れたのだと言えるだろう。しかし、並行して死にも慣れていったのかどうかは、ずっと分からないままだったのだけれど。
葬祭業者から離職して17年、私は45歳になった。齢を重ねるに連れ、見知った顔の逝去に際することも増えた。悲しみに打ちひしがれていても、流れをよどませぬよう日々を回すしたたかさは、私の身にもついている。これがMさんの言う「死に慣れる」というの状態なのかなどど折に触れて考えるが、まだ分からない。 うっかり泣いてしまった私が自責せぬよう、涙が出なかった自分を引き合いに出すべくひねり出した言葉だったのかもしれないし、 私には知り得ぬ意味を含んでいたのかもしれない。
しかし、「死はありふれているけれど、一つひとつの死はそれぞれ違う」ということを忘れたくなかったMさん、同時に、目の前で生きている人間をも、一人ひとり違うと尊重しようと努めていたMさんだからこそ、口に出た言葉なのだと私は思っている。そうでなければ、公私を切り離せなかった私をなじることはしないまでも、「またこのパターンか」と呆れ、気にも留めずに流すことだってできたはずだから。
「このお仕事、好きですか?」
あるとき私は、Mさんにそんな質問をした。
「ああ、考えたことがなかった。自分は家業を継ぐのが当たり前で、それしかできないと思っていたから、好きか嫌いかなんて……そうだなあ、あのさ、生きているから死ぬわけだから、死ってのは、生きていた証拠なんだよね。葬儀屋は、普通に暮らしてたら知らなかったかもしれない誰かが生きたっていう証拠に立ち会えるんだから、ありがたい話だとは思うんだ。うん、ありがたいよね」
伏し目がちに語ったMさんは、好き嫌いについて明言をしなかったのだが、真摯な心持ちで死に向き合う姿勢がまざまざと見える返答を受けた私は、それ以上掘り下げるのは無粋な気がした。微笑みながらうなずいて、話を終わらせようとしていたら、ふと顔を上げた。
「ご葬家にしたら滞りなく済ませられたら、葬儀屋の内心なんてどうでもでいいだろうし、故人の気持ちなんて、ますます分からない。それでも、ああ、こういう人が生きていたんだ、それを知ることができてありがたい、っていちいち思うのは、私がこの仕事を好きな証拠なのかもしれないね。だって、自分だったらこんなふうに送られたいって思うし。泣く人がいなくても構わないからさ」
数年前、出張先でたまたま開いた新聞のお悔やみ欄に、Mさんの名前があるのを見つけた。年月が経っていたにしろ、世話になった人の不在を突き付けられたにも関わらず、鼻をツンと刺激する感覚さえ得られなかった自分に軽く絶望し、「もしかしたらこれは、Mさんが味わった“死に慣れた”ような感覚か」などと頭をかすめたが、金輪際確認することはできない。でも、きっと私はこんなふうに、これからもMさんのことを思い出すだろう。誰かが生きて死ぬ、そのたびに。
「Mさんが生きていたこと、私は知っていますよ。ありがとうございました」
声に出して、一旦新聞を閉じ、私は黙とうした。Mさんは私のことなんて忘れているだろうけれど、そんなことはどうでもいい。Mさんが生きていたことに感謝したかったし、こうした死への向き合い方を教えてくれたMさんに感謝したかった。単なる私の願望だ。伝わらなくても構わない。