【鉱物】 こう‐ぶつ〔クワウ‐〕
地殻中に存在する無生物で、均質な固体物質。
一定の物理的・化学的性質をもち、大部分は結晶質の無機物。
今月は、鉱物についての話をしようと思います。
「風景のある図鑑」(書籍が完成しました!)では主に客観的事実を書いていましたが、
ここで書くのはごく個人的な印象論です。
私は鉱物が好きで、博物館の売店やミネラルショーで気になったものを少しづつ買い集めています。
そもそも、じぶんはあまり物を集めるのが好きなタイプでもありません。
例えば読書、音楽を聴くことも好きですが、手元に本やCDを置いておきたい気持ちがそんなにありません。
では、鉱物は何が違うかと考えてみると、本は紙、CDはプラスチック、その媒体に載っている情報が大切であって、その物自体はありふれたものであるということ。対して鉱物は、そのもの自体がそのものをそのものたらしめていると言いますか、そういう違いがあると思います。
それに加え、鉱物は自然物です。
自然物を手元に置いておこうとするなら、大抵のものは変質してしまいます。(切り花がしおれる、など)
生きた状態で管理、世話をする場合も、日々細胞が入れ替わり、成長していくものです。
それはもちろん素晴らしいことなのですが、部屋に置いておくには少しやかましい感じがしてしまうのです。
鉱物はもちろん生きていませんが、成長します。
鉱物結晶の平らな面を見ると、条線とよばれる細い線、段差が見えます。その小さな段差に鉱物の元になる元素が集まり成長していったさまがよくわかります。
しかし、成長できる状態でなくなると、鉱物はその形をずっととどめる。その安心感。
生きてもいないし死んでもいない。
変質しないように加工したもの(昆虫標本など)は、鉱物標本に近い存在かもしれません。
しかし生き物は動く、自分を支える、消化する、など、目的に合わせたかたちをしています。
鉱物は、何の目的もない、ただの環境変化の際にうまれる澱にすぎません。
その存在の純粋さに惹かれるのでしょうか。
もうひとつ、鉱物といえば宮沢賢治が思い出されます。
少年時代から鉱物採集に熱中していた宮澤賢治の文章には、たくさんの鉱物が出てきます。
「 研ぎ澄まされた天河石天盤の半月 」
「 藍晶石のさわやかな夜がまいりました 」
「 暮れやらぬ 黄水晶(シトリン)のそらに 」
画家が色鮮やかな鉱石を砕いて岩絵の具を作り、絵を描いたように、
宮澤賢治も鉱物の様々な色、質感を拝借し、心象風景を彩っていたのです。
(今回の絵は3月に京都レティシア書房に展示予定の絵です。個展についてはこちらを参照ください。)