暖かくなって、男の子達が、久しぶりに神社の裏手で話し込んでいる。小さな神社の裏に、小さな茶色いベンチが置いてあって、彼らはそこで尽きない話をしている。大体三人ときどき二人、親には聴かれたくない本音の話しのようである。きょうは、おれら二人とも酔っ払ってしまうと、どちらも止めることができないやろなどと、お酒を飲んだ時の危機について話し合っている。ここ二年ぐらい、夕ぐれまでの時間にやって来て、だらだらとしゃべり続けるだけだが、その楽しげなこと!声が台所の窓から洩れ聞こえてくる。実際の姿は、いちども見たことがない。
仲が良いというのはキャッチボールのできる間柄かもしれない。キャッチボールをするには、距離という空間が必要で、いつもベッタリしていては確かめようがないのである。ゴムのように近づけたり遠ざかったりして、ひとは何かを確認する。
わたしの母は、キャッチボールが分からない代わりに、上手く行っている演出を過剰に努力する癖があった。母の行き届いた設計により、催された八歳のお誕生日会は、細部まで思い出せる。飼っていた猫が、折角焼いたスポンジケーキを囓るというアクシデントがあった。ガッカリした母の怒りがわたしのところに落ちてくる。でも、上手くナイフで削って、クリームとイチゴで誤魔化せた。五色の海苔巻きとクリームスープ。天井には、薄紙の花と紙の鎖が張り巡らされた。紙の鎖は、父も少し手伝っていたかもしれない。プレゼントは子供用の木琴だった。頼んだものではなく、贅沢なプレゼントであったけれども、なぜ木琴なのかと思ってしまった。それより、友人が持ってきたくれた花模様のメモ帳だのが嬉しく、気を取られているところを父から叱られた。そうやって、親が一生懸命作ってくれた結界は、ある時まで居心地よかった。
一方、妹は真逆である。全部の流行モノに参加したいし、捨て猫(犬も)は拾ってくるし、その猫が死んでしまって一晩中泣いた。子猫だったので、つききりで世話するべきなのに、うっかり友達の家へ遊びにいって忘れていたのだ。子猫は、最後に異様な鳴き方して、それから死んだ。妹は、後悔とショックで、おんおん気持ちのままに泣く。親が持ち出してくる小リクツに負けたりしなかった。なぜならそうしたいから。どうしてもそうしたいから。悲しいときは力一杯悲しい。
こんなことがあった。家に左官屋さんが来て、古い昭和の木造建築の床の間部分、土壁を塗り替えたことがあった。左官屋さんは、水でこねた土を器用に鏝(こて)で塗り込めていく。無駄のないうつくしい作業。わたしたち弟妹は、それを目をまん丸にして見入りながら、彼が帰ったあと、鏝を触って真似するのを止められなかった。まずわたしが触り、妹が触り、弟も真似をして、秘密だったのにあっという間にバレてしまった。三人のうちの誰かが、土の付いた手でガラス障子の引き手を触ったらしい。逃れようのない証拠として、乾いた土が、黒い引き手に白く残っていた。言い訳は利かなかった。両親ともにカンカンである。わたしと弟は、母親の切れ方にむしろ冷静になってしまい、外へ追い出されることは平気だった。すぐに許して貰えそうもないと計算できたから。しかし、妹は、泣き叫んで謝って、母がしぶしぶ入れてくれるまで続ける。
小学生のわたしは、なんでも我を通したがる妹を莫迦みたいと思っていただろう。彼女は、親に遠慮なんかしなかった。そのまま気持ちをぶつける。欲しがる。無様に泣く。
長女で親にすごく遠慮して育ったのと、子どもがいないこともあり、わたしにとって子どもらしい子どもはあの時の妹だ。妹からすると、親と滅多に揉めないわたしが羨ましいそうだが、そんなことはない。もしも本当のことを話せば、非常に洗練されたやり方でやんわり牽制され、結界の中へと押し返される。母が作った結界は、よく整えられていたけれど、母の満足を満たしていた。あふれる野蛮な感情など対処に困る。親も子どもが小さいと、まだまだ経験も浅いし、子どもっぽい部分をたくさん残していたにちがいない。
そんなことが分かったのは、結婚して家を離れ絵を描き始め、更に時間が経ってからである。
一本のメキシコ映画を見た。離婚する両親は話し合いのために出掛けていて、ひとり息子である少年は、幼なじみの友達と留守番をすることになった。その代わり、コーラは飲み放題、ゲームはOK、ピザを注文していいことになっている。階段のない古いマンションの八階で、少年二人は、ピザ屋が時間以内に到着できないことを予測し、ピザと料金をがめようと画策する。ピザ屋のアルバイト青年の他には、お誕生日を祝って貰えなかった、同じマンションの女の子も訪ねてくる。少年の幼なじみは、実は、少年に友情よりも恋心を抱いている。お母さんの留守中に色んなことが起こるのだ。邦題は、「ダック・シーズン」で、ナタリア・ラフォルカデが担当している音楽も豊かな彩りを添えている。少年は、両親が離婚することに関して、母へ本当の気持ちは言えないままだ。お母さんも、家の散らかりようにむっとしているが、留守中どんなことが起こったか正確には知り得ない。
お説教が始まり、息子を叱りながら、お母さんはテーブルに載っていたブラウニーを一つ摘まむ。自分の誕生日を祝うんだと言って、女の子が強引に作って行ったブラウニーには、彼女の混ぜたハシッシ(薬物)が利いている。そのため、真剣に怒っているのに、カウントがズレたような怒り方になってしまう。映画上に、うまく設計されたズレと、現実のすれ違い。息子は、止める間もなく食べられたブラウニーの効果に苦笑いを浮かべる。そして、そのまま神妙に叱られている。お母さんのいなかった時間、息子は、隠していた自分の気持ちを打ち明ける機会を得たのだ。また反対に、訪問者から悩みを打ち明けられて、すこしだけ大人になっている。お母さんにはわからない。夫婦げんかの元になった、カモの飛翔する絵が、なくなった理由もわからないだろう。
おそらく、母というものの大変さは、半分程度にしか「わからない」という状態を抱え乗り切ることにある。だから、パートナーや世の中は、その「わからなさ」を支えられるようなら周りから支えるもんだろう。お母さんではないひととキャッチボールする時間、伸びたり縮んだりして、子どもは、安全な母の結界を出なければならない。今度は、じぶんの「わからなさ」を自主的に抱えられるように。